2023年03月15日

〜一切無常〜 散ってゆくから美しいのだ 毀(こわ)れるから愛おしいのだ 別れるから深まるのだ、 一切無常 それゆえにこそ すべてが生きてくるのだ(坂村真民)

 私たちが生きるこの世界は、人も自然も物も、そして人の感情も、一切のことごとくが無常(むじょう)です。

 無常とは、字の通り、常では無い。つまり、いつも変化しているということです。

 地球(宇宙)がとどまることなく動いている中で、その中の森羅万象一切のあらゆるものは、過去から現在、そして未来へと変化して、同時に、様々なものと相互に依存して、関係しながら存在し、変化していく。

 桜が咲くのも無常。子供が成長するのも無常。またその反対の現象も無常。すべては例外なく変わっていきます。

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 お釈迦様は、あらゆるものは相互に依存し関係し、様々な原因と条件が合わさって、生まれたり増えたり、減ったり止まったりしている、という法則を発見されたと伝えられています。

 朝顔の種をどこかで買ってきたとします。袋に密閉されたその種は、そのままでは芽を出すことはありません。袋を開け、空気に触れた種に、土や水や太陽の光、または人の愛情などを加えることで、種は芽を出し、生長し、やがて花を咲かせます。

 この例を、先に記したお釈迦様の法則に当ててみますと、種が原因で、その原因に、土や水や太陽の光、人の愛情などの条件が加わって、発芽という結果が起こります。さらに進めていくと、生長し酸素が発生したり、日影ができたり、花を見て喜ぶ人々といった影響が生まれます。さらには、その朝顔の花や葉などに虫たちが群がって、生態の一部となるかもしれません。

 この法則は、人や自然や物、そして人の感情など、あらゆるものに当てはまります。この法則をもとに、人の生き方や考え方を説かれたのが、お釈迦様(=仏)であり、その教えを仏教といいます。

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 その中に、火宅無常(かたくむじょう)という教えがあります。火宅とは、文字どおり、火の家です。火事とは関わっていない自分の日常は、一見平穏に見えますが、いつ感染症の流行で変わってしまうか分からないし、いつ大地震が来て壊れてしまうかも分かりませんし、近くにいる人といつ別れるかなんて私たちには分かりません。

 つまり、日常の平穏は、火の中の平穏であって、いつどうなるか分からない無常な日常なのです。そのような中の当たり前の平穏は、実は大変有り難いものなのです。

 当たり前の、一杯のあたたかいご飯、温かいお風呂、近くにいる人とのちょっとした会話。無常の世界だからこそ、そういった当たり前が嬉しくもあり、尊くもあり、有り難いものとして生きてくるのです。

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三界(さんがい)は安きことなく、なお火宅(かたく)のごとし。
衆苦(しゅく)は充満してはなはだ畏怖すべく、
常に生老病死(しょうろうびょうし)の憂患(うげん)ありて、
是(かく)のごとき等(とう)の火は熾然(しねん)として息(や)まず。
如来(にょらい)はすでに三界の火宅を離れて、
寂然(じゃくねん)として閑居(かんきょ)し、林野(りんや)に安処(あんじょ)せり。
今この三界はみなこれ我が有(う)なり。
その中の衆生(しゅじょう)は我が子なり。
(『法華経』譬喩品第三)

参考『仏典のことば』田上太秀(講談社学術文庫)

 
posted by 正翁寺 at 13:53| 日記