2015年07月10日

先祖が生まれたことで、私が生まれる。先祖が生まれなければ、私はいない。

 皆さま、お釈迦さまは何を悟られたのか知っていますか?それは、こういうことです。

 『これがあると、かれがあり、
  これが生まれることで、かれが生まれる。
  これがなければ、かれがなく、
  これが滅びることで、かれが滅びる。』

 こういうことです。
 抽象的でなにを言っているのかさっぱり分からないことでしょう。

 そこで、「これ」や「かれ」を別の言葉に置き換えてみましょう。

 「日本の警察や消防があることで、安全が生まれている。」

 ふむふむなるほど。ところで皆さん、日本は国土の約7割が森林であることを知っていますか。日本の森林保有率は、熱帯雨林を除くと世界でも五本の指に入るほど高い。つまり日本は奇蹟の自然王国なんです。このように豊かな森林が生い茂っているのは、なんと日本から5000qも離れたヒマラヤ山脈に原因があるのです。

 ヒマラヤ山脈に当たった偏西風は北と南に分かれます。南にそれた風は、インド洋や太平洋の湿った空気と混ざり合って、日本の近海で、北にそれた風と再びぶつかります。その時、梅雨前線が発生して、長雨を降らせます。そうやって日本の豊かな森林の形成に、ヒマラヤ山脈が大きく影響しているのです。

 「ヒマラヤ山脈があることで、梅雨前線が生まれ、
  梅雨(つゆ)があることで、日本の森林が生まれる。
  そして日本の森林があることで〇〇が生まれる。」

 と、このように置き換えられます。
 雨が続くことを皆さん嫌がりますが、梅雨前線は日本に大きな恵みを与えているんですね。

 また、ほかにも様々なものに置き換えられます。

 「学校があることで、私は読んだり書いたりしている。」
 シャンティ国際ボランティア会の報告によると、会が支援している中東アフガニスタンの小学生就学率は55%だそうです。十分な教育が受けられなかった子は、文字の読み書きができません。字が読めないので、食事や医療の情報が充分に得られなく、栄養失調や感染症になって命を落とすこともめずらしくないそうです。
 一日三回食後に3錠服用ということばの意味を理解できるのも、平和に学校へ通えたことで身についているといえます。

 
 『先祖が生まれたことで、父母が生まれ、
  父母が生まれたことで、私が生まれる。
  そしてあなたと私が生まれなければ、この子はいない。』

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 あらゆるものは、種々の「因(=原因)」と「縁(=条件)」が複合し、融合し、そしてみな依存して誕生し、生存し、流転(るてん)し、生滅し、そして空(くう)に帰す。
 そしてまた、空(くう)から何かの「因(=原因)」と「縁(=条件)」が和合(わごう)して形あるものが誕生し、生存し、流転し、生滅し、そして空(くう)に帰す。この繰り返しが世間(=私たちが住む世界)である。
 お釈迦さまは、これを「ものはみな縁起(縁滅)している」と悟られたのです。

 さあ皆さん、お盆中はご先祖をお迎えし、語らい、感謝のもてなしをしましょう。 

 (参考:『仏典のことば』 田上太秀著
      『日本列島 奇蹟の大自然』NHKスペシャル)




posted by 正翁寺 at 13:38| 日記

2015年06月04日

日日是好日(にちにちこれこうにち)

 私たちは、大きな力によって支えられています。
 
 

「私は見た。」と、人は言いますが、今見えているものは、真っ暗な闇の中では見えません。この光は、この明るさは、誰が作ってくれたものでしょうか。
 今吸っている空気は、誰の力によって作られているのでしょうか。
 朝、顔を洗った水はどうでしょう。

 一粒のお米が口の中に入るまでに、どれだけの手数がかかっているのでしょうか。排便した後の水は、どのような経緯で、きれいに川に流されているでしょうか。いつも安全に歩いている道路は、いつ誰がどのように作ってくれたのでしょうか。

 一つの結果には、様々な原因や条件が集まって成り立っています。果実という言葉は、結果が実ると書く通り、みかんが一つ実るにも、太陽や雨の恵みであったり、人の手数であったり、様々な原因や条件が集まって出来上がります。

 では自分自身の命はどうでしょうか。過去からの命のリレーがつながって、おなかを痛めて生まれ、様々な支えによって食べ物を食べさせてもらって、夏や冬を越して、言葉を覚えたり、足し算ができるようになったりして、そして今日も様々な大きな力によって生かされています。

 私たちは、様々な人、色々なものに、生かされています。その大きな力のおかげさまに感謝をして、一日を過ごしましょう。 

 毎日を好日にするかは、自分自身の心で決まります。


posted by 正翁寺 at 18:02| 日記

2015年05月05日

本当の幸せは、 「今、生きている」 という事。

 この言葉は、小学6年の時に骨肉種が見つかり既に肺にも転移、医師から『余命半年』と宣告された13歳の少女、猿渡瞳(さるわたりひとみ)さん(福岡県大牟田市)が作文発表したものです。http://hitomi-message.com/about.html

福岡県大牟田市の解説http://www.city.omuta.lg.jp/hpKiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=710&class_set_id=1&class_id=374

本当の幸せは、
「今、生きている」
という事。

毎朝この言葉を声に出して、限られた一日、そして限りある一生を悔いなく過ごしましょう。

posted by 正翁寺 at 20:26| 日記

2015年03月08日

禅の友3月号 (来月からリニューアル致します)

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「表紙のことば」たまちゃん
 変わらない景色。山や川、草や花。
 同じように見えている花も去年とは違う花。
 この一輪の命が精一杯生きるように、
 私たちも全力で生きていきたい。
 宇宙の大きな視野を考えると、
 花も私も生きることに大差はないのだから。

「是」酒井大岳(P,30)
 「ぜ」と読みます。「正しい!そのとおり!」と相手をたたえる時に言います。
 師の問いに弟子が答え、その答えが禅の道に適(かな)っている時、師は「是!」と言うのです。
 あるお坊さんと桜の花の散るのを見ていました。わたしが「いさぎよく散りますねえ」と言ったら、そのお坊さんが「雅(みやび)ですね」と応(こた)えたのです。
 これには意味があります。桜はちる、うめはこぼれる、牡丹(ぼたん)はくずれる、椿はおちる、これは「雅のことば」と言い、平安時代の女流歌人たちが大切にしていた表現上の心得なのです。
 そのお坊さんはこのことを知っていたので「雅ですね」と言われたのです。わたしはすぐ「是!」と言い、二人は手を取り合って大きく笑いました。

「その命を思って」橋悦堂(P,10)
 
 四度目の三月十一日が来ます。

 仙台市葛岡墓園管理事務所の一室。
 そこには身元不明の方や引き取り人がいない方のご遺骨が今も安置されています。
 毎月その場所に、県内の宗教者が集まって東日本大震災の供養を行います。
 目の前にあるご遺骨は、今は亡きその方の生きてこられた刻(とき)を詰め込んでいる。
 人として生を得、己が人生を歩み、
 四苦八苦をその身に受け、
 震災という難に遭い、その生を全うし、
 姿を変え、ここに存在している。

 お位牌やお墓も遺骨と同じく、亡き人の人生を刻み、命を宿したものと感じられるから大切に扱われるのでしょう。
 ご遺骨やお位牌は先に行かれた方の命の尊さを教えると共に、今を生きる私たちの命もまた尊ぶべきものと教えてくれます。
posted by 正翁寺 at 14:47| 日記

2015年01月29日

禅の友2月号

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・「釈尊涅槃会(しゃくそんねはんえ)」大本山永平寺(P,30)
 二月十五日は涅槃会が行じられます。涅槃とは梵語(ぼんご=サンスクリット語)で「吹き消す」と訳され、煩悩(ぼんのう)の炎を吹き消し、一切の苦しみから解放された悟りの境地を指します。また生命の炎を消すことから死ぬこと、一般には釈尊の入滅(にゅうめつ)を意味するのです。

 
 おのれこそ、おのれのよるべ、おのれを措(お)きて誰によるべぞ、よくととのえし、おのれにこそ、まことえがたき、よるべをぞ獲(え)ん             (法句経(ほっくきょう))

 釈尊が入滅される間際、弟子に対して残された教えと伝わっています。自己を調えることの大切さを説かれたこの教えは、現在も永平寺の修行生活に息づいています。
posted by 正翁寺 at 11:41| 日記

2015年01月01日

禅の友1月号

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・「旧年の枝」釜田隆文(P,6)
 早春には百花(ひゃっか)に先駆けての花が咲き、清香(せいこう)を放ちます。
 大本山永平寺を開かれた道元禅師(どうげんぜんじ)は、『永平行録(えいへいこうろく)』の中に「梅花(ばいか)新たに発(ひら)く旧年の枝」という言葉を残されています。
 梅の花は春になったら当たり前に咲くのではなく、厳しい冬を耐えてきた枝があってこそ、その上に新しい花を咲かせることができます。
 過去の積み重ねがであり、今の積み重ねが未来を生んでいきます。こうして新しい年を迎えられる私たちは、たくさんの人たちの支えがあって、今ここにいます。私たちは未来に向かって何ができるのでしょうか。
 年頭にあたり、支えてくれた方々に感謝の想いをかたむけ、希望に満ちた明日に向けて一歩を進めたいものです。

 ・「知音(ちいん)」酒井大岳(P,1)
 心の底から信じ合えるのことを言います。
 『因果経(いんがきょう)』に「親友になくてはならない心」が説かれています。
 
 @過失があったら忠告する。
 A吉事の時は共に喜ぶ。
 B苦境に落ちても捨てない。

 この心を淡淡と保てる者同士が本当の親友であるということですね。

 
posted by 正翁寺 at 16:42| 日記

2014年12月03日

禅の友12月号

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・「臘八摂心(ろうはつせっしん)」大本山永平寺(P,30)
 12月1日より8日未明まで臘八摂心が行じられます。
 「臘(ろう)」は臘月(12月)のことで、「八」は1日より8日までを表し、「摂心(せっしん)」は散乱しがちな心をおさめ、ひたすら坐禅に打ち込む行のことをいいます。

 『いわゆる坐禅は習禅にあらず。ただこれ安楽の法門なり』

 これは、道元禅師が書かれた普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)の一節です。ひたすらに坐る時、自(おの)ずからわき起こるの安らぎを「安楽の法門」と表され、その安らぎは坐禅によって導かれるとお示しです。
 
posted by 正翁寺 at 16:59| 日記

2014年11月07日

禅の友11月号

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・禅のことば「開拓心田」酒井大岳(P,1)

 「心田(しんでん)を開拓(かいたく)す」と読みます。心の中に沈んでいる田を耕して、新しい自分の花を咲かせる、ということです。

 よく「自分がつくづく嫌になった」と言う人がいますが、自分というものはそれほど簡単に分かるものではありません。まだまだ自分の知らない自分が限りなくひそんでいるのです。
 ボランティア活動に参加された人から聞きました。「私の中にこんな私がいたとは知りませんでした」と。

 禅の世界も同じです。よき師に出合い、教えに出合うことによって、心田が耕されていくのですね。学びを大切にしましょう。
posted by 正翁寺 at 18:24| 日記

2014年10月04日

禅の友10月号

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・「達磨忌(だるまき)」大本山永平寺(P,30)
 10月5日は、禅宗の祖である菩提達磨大和尚(ぼだいだるまだいおしょう)のご命日です。
 達磨さんは5世紀ごろ、南天竺(なんてんじく)にある香至国(こうしこく)の第三王子として誕生し、般若多羅尊者(はんにゃたらそんじゃ)の法を嗣(つ)いでお釈迦様より二十八代目の祖師となられました。
 晩年、師より受け継いだ禅の教えを広めるため中国へ渡ります。その禅の教えが道元禅師を経て我々まで伝えられたことへの報恩感謝と、達磨大師のご遺徳を偲び、4日・5日の両日にわたり厳かに法要が営まれるのです。
posted by 正翁寺 at 13:55| 日記

2014年09月12日

禅の友9月号

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「遠くに彼岸を求めない」丹下覚元(P,10)
 「彼岸とはどこにありますか?どこか遠くにあると思っていませんか?」
 彼岸・極楽浄土というと、あたかもどこか遠くの世界にあるかのような、根拠のない理想郷を思い描かせる。
 また、本屋さんに行きますと、成功学、幸せになるための本がたくさん売られています。
 手に取ってみても「このままの自分じゃダメだ」と、「もっともっと」と他の理想郷を思い描かせる内容ばかりです。しかし思い描いている遠くの理想郷らしいものを手放しさえすれば、彼岸がそこに広がっているのです。遠くを求めることをやめた時、眼の前、足下の現実こそ、彼岸の真っ只中であることに気づけるのです。
 「もっと」幸せになれますように、と遠くを願わずに、もっと足元の満ち足りた生活に目を向けて、感謝の祈りを捧げてみましょう。そうすることで、すでに到(いた)っている足元の彼岸、今の確かさに落ち着けるのではないでしょうか
posted by 正翁寺 at 11:48| 日記

2014年08月02日

禅の友8月号

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・「昔話を語り継ぐことの大切さを伝えたい」小澤俊夫さん(P,2)
 言葉には、その人の人生そのものが表れています。そして、土地の言葉のちょっとした言い回しなどに、人間性が色濃く表れます。もちろん共通語にも人柄は表れますが、やはり薄められている感じがしますね。ですから、その土地の言葉は大切にしたいのです。
 喜怒哀楽を感ずる情緒を育むためにも、土地の言葉で語られる昔話を読み聞かせることは欠かせない。

お釈迦様の薬箱「ナツメ」太瑞知見(P,18)
 ナツメは滋養強壮や精神の安定などに効果があります。インドのアーユルヴェーダやチベット医学、中医学でも、古くから使用されていました。
 日本にも奈良時代以前から伝えられていたようで、万葉集にも詠われています。古くから人々になじみの深い植物なのですね。

大本山永平寺「大燈籠ながし」(P,34)
 この時期、毎年恒例となる「大燈籠ながし」が行われます。九頭竜川の河川公園を会場に、日中からコンサートやバザーなど様々な催しがあり、永平寺町にとどまらず福井県内外から多くの人が集まります。
 そして、日が沈み辺りが暗くなるころ、永平寺より修行僧など約120名が特設のステージに上がり、一万基ほどの燈籠が供えられた祭壇の前で、大法要を営みます。
 法要が終わり永平寺の老師が、主催者と共に岸辺より火の灯された灯籠を静かに流します。これは、ご縁のある生きとし生けるものに感謝の気持ちを表すのです。
 続いて一般参列者が一斉に灯籠を流し始めますが、ふと川辺を見ると、いつの間にか無数の灯籠が帯状に蛇行しながら流れる様が目に映り、その幻想的な光景に人々は魅了されます。
 最後は満点の夜空に打ち上げられる花火で締めくくられ、その打ち出しを合図に修行僧は永平寺へと戻るのです。
posted by 正翁寺 at 17:50| 日記

2014年07月03日

禅の友7月号

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「命は誰のものか」橋悦道(P,10)
 誰もが自分の命は自分のものと思っているだろうけれど、本当にそうなのか。
 ひとりの人の先祖を十世代さかのぼると単純計算で1024人となり、そのうち誰が欠けていてもその人は存在しないという。
 逆に考えれば、人ひとりの命はこの先たくさんの命に関わっていくことになるのかもしれない。今あるひとりの命は、過去と未来の数えきれない命との繋がりの中にある。
 子供や孫だけでない。顔を見ることのないであろう遠い未來の子孫たちが、今ある私によってある。過去と未来の時間軸を考えるだけでも、命が、一人の命が、その人だけで完結していないことが分かる。
 今ココ私だけで終わらない命だからこそ、今ココ私を精一杯生きて、命を贈ろう。


posted by 正翁寺 at 13:38| 日記

2014年05月31日

禅の友6月号

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・禅のことば「本然清浄」酒井大岳
 「ほんねんしょうじょう」と読みます。人は生まれながらにして仏心(清らかな心)を持っているという意味です。
 ある医師から直接聞いた話です。
 「暴走族の幹部であったある少年が事故を起こし、この病院に入院して半年経ったある日、『自分は今日から変わる』と言ってきました。
 なぜかと聞いたら、『廊下を駆け回る看護師さんたちの足音や、リハビリを続けてくれる先生たちの呼吸が、みんな自分の体をよくする為の音であったと初めて気づいたからです。自分は今日から真人間になって、他人(ひと)の為に少しでも役立つ人間になりたい』と言うではありませんか。
 日頃の少年の暴言に腹を立てていましたが、これを聞いて『医者になってよかった』としみじみ思いました。人間は本来美しい心を持っているものなのですね。」

・百人百想インタビュー「三角勝信さん」(P,2)
 三角勝信さんは、現在、福岡県内に二十店舗を展開しているディスカウントショップ「ルミエール」の社長。創業に先立ち教わった商売の理念とは、「自分だけが儲かるのではなく、お客さんいいものを安く売って喜んでもらうこと」であった。そして、「商売のテクニックだけでなく、人の役に立つのが仕事だ」などの、人生の本質も学んでいきました。
 経営における基本は、よい商品をより安く売り、会社の発展と社員の物心両面での幸せを図り、地域や取引先に貢献する、にある。

「主人公すぎる」青木千恵(P,18)
 最近は「逆ギレ」をする人が多いと思った。先日街で六十歳前後の女性二人がにらみ合い、「示談」などと言い合っている姿を見たが、「『主人公』にとっては、自分の意に反する動きをする人は皆、行く手を阻む『敵役』なのかもしれない。」
 自分にないものを持つものに嫉妬を覚え、動きをマークするのも、自分が主人公だから。しかし、自分だけが主人公でないのが「万物の世界」である為、現実では齟齬(そご・ギャップ)が起きる。人と人との間で織りなされるのが物語で、主人公一人だけでは物語は生まれない。

「ダライ・ラマ法王14世 記念講演」を語る
 Q.他者から身に覚えのない怒りを受けてしまった時、どのように向き合えばよいですか?
 A.相手が、あなたにぶつけてきたその怒りは、煩悩(ぼんのう)によって作り出されたものです。私たちは、相手に対して怒りを抱くのではなく、相手の煩悩に過失があるのだと考えましょう。

posted by 正翁寺 at 11:25| 日記

2014年05月11日

禅の友5月号

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・「桃李不言 下自成蹊」酒井大岳(P,1)
 「とうりものいわざれども、したおのずからこみちをなす」と読み下(くだ)します。
 桃や李(すもも)は無言のままで人を集めます。徳のある人の所に、自然に人が集まってくるたとえです。
 禅の道に生きる人々は静かです。瞋(いか)らず、騒がず、綿密で、穏やかで、飾り気もありません。
 世の波に流されている自分に気づいた時、人は好かれようという思いから離れ始めます。そのとき初めて桃李(真実)を見つめる眼差しを授かるのですね。そこから本当の人生が始まると言ってもよいかと思います。

・「進化のない伝統文化は滅びる」(P,2)
石見神楽(いわみかぐら)を演じる者に、伝統を守るという意識はないでしょう。伝統を守ろうとこだわると、時代に取り残され、社会に必要とされなくなるからです。基本は、自分が演(のべ)りたいから演る。もっと楽しくしたいから、今ある神楽を工夫する。時代に合わせて進化してきたのが石見神楽なのです。

・「お経を唱えて」尾崎正善(P,18)
 葬儀・法要の時、お経をお唱えしますがそれはなぜでしょう。
 『法華経』という経典の中には、「経典を読誦(どくじゅ)し、書写し、護持したならば、その功徳は計り知れない。」と、説かれています。
 このようにお経(お釈迦さまの教え)を読んだり、書き直したり、さらには大切に持っているだけでも多くの功徳がある、と古くから考えられていたのです。

posted by 正翁寺 at 21:38| 日記

2014年04月17日

禅の友4月号

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・「報恩授戒会(ほうおんじゅかいえ)」大本山永平寺(P,30)
 報恩授戒会とは、お釈迦さまの尊いご戒法(かいほう)が歴代のお祖師(そし)さまを経て、永平寺79世福山諦法不老閣猊下(ふくやまたいほうふろうかくげいか)へ伝わり、更に授戒会に参加される戒弟(かいてい)の皆さんへと伝授される儀式のことです。
 戒(かい)を授かるということは、仏の教えを我が身に照らし、我が非に気づき、それを正すべく実践していくこととされます。
 一週間調えられた環境に身を置き、素直な心で仏の行(ぎょう)を行う時、知らず知らずのうちに、みな尊い仏そのものとなられます。
 皆さまにも是非この尊きご縁を賜る報恩授戒会をお勧めいたします。

posted by 正翁寺 at 13:40| 日記

2014年03月08日

禅の友3月号

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「夜眠日走」酒井大岳
 「よるねむり、ひにはしる」と読みます。夜はゆっくり休み昼は元気に働く、つまり、天体の運行に逆らわずに生きることを言います。
 104歳になるおばあちゃんに長生きの秘訣を聞きましたら、「そうさなあ、小鳥とおんなじかなあ。暗くなったら寝て明るくなったら起きる、それだべなあ」と教えてくれました。
 就寝時間が真夜中近くになっている現代人が、朝から疲れた顔をしているのは、自然の摂理に反している現象と言えなくもありません。

「彼岸会(ひがんえ)」大本山永平寺(P,30)
 彼岸会とは春分・秋分の日を中日とした一週間のことです。
 「彼岸」は「到彼岸(とうひがん)」の略で、「此岸(しがん)」(煩悩と迷いの世界)にいる我々が仏道修行により到達できる悟りの境地のことを意味します。
 このことについて道元禅師は、修行して彼岸に到るのではなく、迷い多き此岸こそが悟りの世界でもあるとお示しです。
 悟りを求める心を発す(おこす)ということは、自らが救われる前に他の人々を救おうという願いを発し実践していくこと。
 もし此岸においてすべての人がこのことを実践すれば、此岸と彼岸の垣根がなくなり、誰も彼岸にいく必要はなくなるでしょう。このことを「彼岸到(ひがんとう)」と表現されています。
 
posted by 正翁寺 at 11:24| 日記

2014年02月02日

禅の友2月号

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「焼香の功徳」尾崎正善(P,18)
 お寺にお参りした時、ご法事の席、またお通夜・ご葬儀に参列された時など、お焼香をされたことがあると思います。
 この焼香は、中世、室町期に書かれた禅宗の書物の中にありますから、かなり古い段階から行われていたことが分かります。
 作法に関しては、宗派や地域によって異なりますが、何よりも心を込めて行うことが大切なのです。では、心を込めて行うとは、どのようにしたらいいのでしょうか。師匠に言われたことは、相手のことを思い出して、感謝の気持ち、ありがとうという思いを新たにして焼香せよ、ということでした。
 お釈迦さま、ご本尊様に対する焼香はもちろんのこと、その法要で供養する方、さらに会ったことのない多くのご先祖さまに対しても、自身にツナがる命の尊さを思いながら、感謝の思いを新たにして焼香しなさいということです。
 亡き父母や祖父母のこと、ご先祖さまを思いながら焼香したならば、何よりのご供養になるのではないでしょうか。


posted by 正翁寺 at 17:29| 日記

2014年01月02日

禅の友1月号

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「若水迎え」村田善子
 元旦のまだ暗いうちに、お餅やお米を水神や井戸神に供え、井戸から水を汲んでくる行事のことを「若水迎え(わかみずむかえ)」といいます。
 かつてはこの水で家族の食事を炊き、またお茶をたてて飲む習慣がありました。家族中が新年の凜とした空気の中で気持ちを正していた風景が浮かんできます。
 水道が普及し井戸へ水を汲みに行くこともなくなった現在では、この行事はほぼなくなってしまいました。でも、せめてその気分だけでも拝借したいと、元旦の朝に目覚めて初めて口にする水やお茶に、少しばかり心を研ぎすまして扱い、飲む。体中で一年のはじまりを迎え入れる。
 ひんやりした冷たい水をスーと体に通すのか、もしくは丁寧にいれたお茶をじっくり味わうのか、それはその時の心境で。

「食事の功徳」太瑞知見(P,16)
 お正月は気分も一新。お天道様もひときわ神々しくみえる特別な朝です。そしておせち料理に舌鼓を打ちながら、改めて日本の食文化の豊かさを思います。
 昨年末には「和食・日本人の伝統的な食文化」が、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。和食の特徴である「うまみ」は、英語でも「umami」と表記されるほど日本独自の食文化です。
 多様で新鮮な食材、世界でも類をみない発酵食品や乾物がおりなす料理、自然の美しさや四季のうつろいを表現した盛り付けなど、多種多彩な日本食は、私たちの大切な伝統です。一節によれば、郷土料理を含めると、日本食には四千種類以上のレパートリーがあるとか。
 今年は日本食を見直して、好きな人や気の合う仲間と一緒に、楽しく美味しい食事をたくさんいただきましょう。今年まるまる、みなさまにとって、美味しく幸せな一年になりますように。

「食べものの記憶」青木千恵(P,18)
 お正月は一年のはじまりを祝い、さまざまな願いを込めておせち料理をいただく時節だ。
 1965年度に73%だった日本の食料自給率は、2012年度には39%に低下し、輸入に頼りつつ多くの食べものが国内に流通している。消費者の口に入るまでに複数の業者が関わり、、食べものをめぐる事件が起こるようになった。
 昨年秋、高級おせち料理の食材が何年にもわたって偽装されていたことが発覚して、注文のキャンセルが相次いだ。また食をめぐる事件は、ホテルや百貨店でも食材の「偽装」が行われていたと分かり、芋づる式に広がっていった。
 注目をひこうと、世の中には宣伝文句があふれている。「名門」や「大手」が信頼できない場合、何を判断材料にしたらよいのだろう。「口コミ」はどうかというと、一昨年に口コミを掲載するグルメサイトで「やらせ」が発覚している。何より匿名の書き込みは情報として曖昧だ。
 結局のところ自らの感覚を育て、物事の善し悪しを見わける力を付けていくことだと思う。何気ない普段の食卓は、ブランドとは無縁でごまかしがきかない。その人自身の感覚は、平素の生活を通して養われる。
posted by 正翁寺 at 17:40| 日記

2013年11月30日

禅の友12月号

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・禅のことば「潺々流水」酒井大岳
 「せんせんたるりゅうすい」と読みます。さらさら流れる浅い谷川の音を言います。
 人は多かれ少なかれ悲風(悲しい運命の風・黒風とも言う」を浴びて生きていきますが、そのために暗くなってしまう人と、乗り越えて明るく生きていく人と、さまざまです。
 多くの苦難にめげず、なおかつ明るくのびのびと生きていく人のことを「乗り越えて澄む」と言っていますが、水にたとえると、よどむ水は濁り、流れる水は「澄む」ということでしょう。
 「さらさら生きて、さらりと去る」、禅の歴代の方々の一生は、おおむねこのようでありました。流れて澄んでいきたいものです。

・特集「新たに歩む」(P,1)
 定年後の人生をいかに生きるか。それが問われる時代になった。今までの経験を生かしつつ、新たな人生を送るためには、何を考えて歩み出すべきなのか。

posted by 正翁寺 at 18:29| 日記

2013年10月29日

禅の友11月号

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・禅のことば「粒粒辛苦」酒井大岳
 「りゅうりゅうしんく」と読みます。一粒一粒のお米には農家の人々のご苦労と、光線・水・肥料などの恵みがあふれています。それを感謝していただくとき、一粒のお米の本当の味が分かるのです。
 戦時中、食べ物がなくなると、私は裏山に登って楢(なら)の木の根を掘りました。根の先にほっこり膨らんでいる部分があり、それを切って家に持って帰ると、母が喜んで、「これで三日は生きられる」と涙ぐんでいました。これを土鍋で煮て食べたときの美味しさは、今でも忘れることができません。それからは一粒一粒のお米を心して味わうようになりました。 
 現代は食べ物が豊富で食べ残しはほとんど捨てているようですが、禅の道は一粒のお米のいのちを大切にするところから始まります。そこには大宇宙のいのちが凝縮されているからです。

posted by 正翁寺 at 15:56| 日記