2013年10月29日

禅の友11月号

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・禅のことば「粒粒辛苦」酒井大岳
 「りゅうりゅうしんく」と読みます。一粒一粒のお米には農家の人々のご苦労と、光線・水・肥料などの恵みがあふれています。それを感謝していただくとき、一粒のお米の本当の味が分かるのです。
 戦時中、食べ物がなくなると、私は裏山に登って楢(なら)の木の根を掘りました。根の先にほっこり膨らんでいる部分があり、それを切って家に持って帰ると、母が喜んで、「これで三日は生きられる」と涙ぐんでいました。これを土鍋で煮て食べたときの美味しさは、今でも忘れることができません。それからは一粒一粒のお米を心して味わうようになりました。 
 現代は食べ物が豊富で食べ残しはほとんど捨てているようですが、禅の道は一粒のお米のいのちを大切にするところから始まります。そこには大宇宙のいのちが凝縮されているからです。

posted by 正翁寺 at 15:56| 日記

2013年09月25日

禅の友10月号

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・禅のことば「葉落ちて根に帰す」酒井大岳
 「はおちてねにきす」と読みます。
 木々たちは枯れ葉を根元に落とし、土に返してみずからを生かす栄養とします。この繰り返しが木々たちの命を循環させているのです。
 ところが、雑木林を歩いて行くと、木の根元にはさまざまな木の葉が集まっていることに気づきます。木枯らしの吹くなかで木々たちは互いに枯れ葉を交換し、より新鮮な栄養素を作り合っている。
 この自然を観察していると、争わず、分け合って生きていることに教えられます。
 枯れ葉に学んで、人間も互いに良いものを交換し合って生きてゆきたいものです。

・特集「挑む」(P,1)
 現在、大学卒業者の四人に一人が非正規雇用。たとえ正規の社員になれても、三十代、四十代で引きこもりになる人が約二割を占めるという。果たして彼らが、正規雇用や都市での生活にこだわる必要があるのだろうか。
 もっと柔軟に自分の生き方を考えたときに、別の選択肢も出てくるのではないだろうか。自分が生きていく世界をもっと自由に考えてもいいのではなかろうか。
 「皆が皆、会社員になる必要はありません。人間関係に疲れ、家に引きこもってまで都会生活をする必要もありません。人間相手ではなく、自然を相手に自己を発揮する手立てもあります。自然を相手にのびのび暮らす方法もあります。要は、自分の生き方をもっと柔軟に考えるべきなのです」
 「全国的な動きとして、山に木を植える運動があります。樹木を植えることで山の養分が増え、その養分が川を流れて田畑を潤し、海に注ぐことで海の養分も豊かになる。その養分を食べて魚介類は美しく育つ、というのです。植林の結果、山崩れなどの災害を防ぐことにもなる」
 現在は、国も人も、共にカラを破ることが求められている。今まで通用してきた古い価値観(=カラ)を破って、新しい価値観に向かって挑むときが来ている。

「犯罪の件数の減少と治安の悪化」青木千恵(P,10)
 八月に公表された今年版『警察白書』によると、12年の刑法犯の認知件数は、戦後最多だった02年の半数以下に減っている。犯罪の認知件数は減少の一途だが、内閣府の世論調査では、国民の8割以上が「過去10年で治安は悪化したと思う」と答えている。
 12年の児童虐待の検挙数は99年以降で最多だった。いじめに起因する事件数は87年以降で最多。家庭内暴力(DV)やストーカーの件数も増えている。
 犯罪件数の減少は「みえる犯罪」が減ったということで、「みえにくい犯罪」は減っていず、「悪意」のようなマイナス感情を自制できない人は、むしろ増えているのかもしれない。
 しかしこの「悪意」という感情を、人は誰でも持っている。法に触れなくても、悪意は世の中を息苦しくするし、ときに犯罪を誘発する。自制を習慣づけて努めなくてはならないが、そうできない人もいる。
 愚か者の「みえにくい犯罪」で簡単に崩れるような人間関係を築いてはいけない。信頼できる人とのつながりを大切にしたい。
 
posted by 正翁寺 at 17:34| 日記

2013年08月31日

禅の友9月号

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・禅のことば「随縁」酒井大岳
 「ずいえん」と読みます。文字どおり「縁にしたがう」ことを言います。
 縁は不思議です。なぜ巡り会うかを説明することができないからです。
 夫婦・親子・師弟・友人、みな遠い過去からのかかわり合いがあって巡り合っている。ご縁を大切にしましょう。
 この星に ふたり合うべく 生まれ来(こ)し
      えにし尊(たっと)ぶ けふ嫁ぐ子に   伊藤幸子

「苦しみとは何か」羽賀孝行(P,18)
 皆さんは「苦」という漢字を見るとどのようなことが頭に浮かぶでしょう。
 一般的には、肉体的・精神的な「苦痛」がまず浮かんでくるのではないでしょうか。
 お釈迦さまは、この世のすべてのものは常に移り変わっており、永遠だと思っているものもいつかは必ず失われていく、「無常」な存在だと示されました。
 そして人はその「無常」なるものを「これは私のものだ」と執着してしまうからこそ苦しむのだと説かれるのです。
 自分の周りにあるすべてのもの、また自分自身でさえもいつかは必ず失われていくものですから、ずっと自分のものであることを願っても、、それは叶うはずがありません。
 思い通りにならないことを、思い通りにしようとして苦しむ自分。これらを知ることが苦しみを離れる一番の近道なのです。

 
posted by 正翁寺 at 11:33| 日記

2013年07月27日

禅の友8月号

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禅のことば「真儀凛々」酒井大岳
 「しんぎりんりん」と読みます。「真儀」は姿形(すがたかたち)のこと、「凛々」はりりしいということ。容姿や身なりがきりっとしている人は、心もいきいきとしてさわやかである、という意味の言葉です。

 日はのぼり日はまた沈むいつのときもわれに凜たり心の一樹  
 (加藤克巳)

 こころに一本の樹があり、その樹はいつも凜としていると言います。買った樹ではありません。学んで育てた樹なのです。
 そこから「しゃん」とした姿形が生まれ、りりしい生き方が始まるのです。これを「りんりんと生きる」と言っています。 
 

「変わることと 変わらないお盆」上月泰龍(P,1)
 以前あるお宅へお盆のお参りに伺ったときのことです。その夏はキュウリが不作だったので、そのお宅では代わりにゴーヤで馬をつくられたのでした。
 少しずつ形の変わっていく風習もあるし、地域によってお勤めの仕方にも違いがあります。それでも、「お盆にはご先祖さまをキチンとお迎えしたい」という私たちの気持ちは、時代や土地の違いに関わりなく、変わることがありませんでした。
 100年後に私たちの子孫はどんなお盆をお勤めしているのでしょうか?100年後にも変わらずお勤めしてもらえるよう。それを忘れずに、今年もお盆を迎えたいものです。

posted by 正翁寺 at 17:30| 日記

2013年06月30日

禅の友7月号

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禅のことば「朴而不形」酒井大岳
 「朴(ぼく)にして形(かたち)つくらず」と読みます。朴訥(ぼくとつ)でなりふりを飾らない人柄を言います。
 長女が嫁ぐとき、「お父さん、私に小さな言葉を一つください。それを大切に生きていきます」と言うので、考えた末、色紙に「かざらず、かまえず、かたよらず」と書いて持たせました。
 人は飾れば飾るほど心の内側を覗かれます。構えれば構えるほど心身ともに疲れます。この二つから離れる努力をしないと、いつの間にか偏(かたよ)った人生を歩んでしまい、取り返しがつかなくなってしまうようです。

お盆を迎える〜まごころのおもてなし(P,1)
 お盆行事、日本では657年に宮中で初めて行われた記述があります。それから恒例行事として宮中で行われるようになり、それが民間にも受け入れられるようになると、ご先祖さまのみならず、生きとし生けるものすべてに供養を施し、幸福を願う国民的行事として定着しました。
 地域によってさまざまな迎え方、飾り方がありますが、形態はどうあれ、ご先祖さまのお霊をまごころをもっておもてなしすることが、「お盆」の本質です。お盆を機会に、ご先祖さまに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

posted by 正翁寺 at 15:59| 日記

2013年05月30日

禅の友6月号

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「入泥入水」酒井大岳
 「泥(でい)に入(い)り水(みず)に入(い)る」と読みます。
 菩薩(ぼさつ)が泥まみれになって世間の人を救う姿を言います。自らおぼれる覚悟がなければ、今おぼれようとしている人を助けることはできない。

「故郷について」青木千恵(P,10)
 1960年に19.9%だった過疎地域の人口の割合は、2010年には8.1%に低下している。面積にすると国土の57.2%を占める。故郷をいかに存続させ、次の世代に残すことができるのか、自治体が対策を講じている。
 都市生活が主流になり、標準語を話す人が増える中で「方言の衰退」も起きている。ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が09年に発表した「世界危機言語地図」によると、世界では約2500の言語が消滅の危機にさらされており、日本ではアイヌ語、八重山語、与那国語、沖縄語、奄美語、八丈語がリストに掲載された。

岡本太郎「明日の神話」山下祐二(P,26)
 渋谷駅に設置されている岡本太郎作「明日の神話」。なんと、縦5.5m、幅30mもある巨大壁画だ。
 「明日の神話」のテーマは、「ヒロシマ・ナガサキ」。核兵器に焼かれてなお、大らかな生命力で生き続ける人間の姿を高らかに表現している。

posted by 正翁寺 at 14:19| 日記

2013年05月04日

禅の友5月号

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「若者とは『何者』か」青木千恵(P,10)
 「若者」とは何だろう。年上の人から見て私は若者だが、年下の人から見ると私は高齢者だ。恩ある人を思い、己の分際(ブンザイ)をわきまえて生きるのが若者なのかなと思った。世の中は理不尽で、努力すれば必ず報われるわけではない。それでも努力するのが若者ではないか。
posted by 正翁寺 at 15:43| 日記

2013年04月01日

禅の友4月号

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・特集「ほめる」(P,1)
 ほめるには、具体性が必要です。具体的にほめることで、悪い点を指摘するときにも素直に聞いてもらえるようになります。問題は、教わる方も一生懸命だが、「教える方もきちんと見ていますよ」という姿勢にあるのです。

「新亡精霊供養御和讃」岡本大英(P,9)
 大切な人の死、それは悲しくつらいものです。この曲は、その後四十九日まで、大切な人との別れをどのようにとらえ、生きていくのか学びながらお唱えする御和讃です。
 あなたに出会えたご縁に感謝し、深い絆で結ばれていたことを思い起こしていくと、その人のことを決して忘れることはありません、と詠(うた)われています。
 人生は人と人とのご縁によってつながっています。別れが訪れたとしても、かけがえのない人と出会うことができた、そのことを忘れずにいつまでも感謝し続けたいものです。

「やさしいことば」浅野廣道(P,18)
 「やさしいことば」を「愛語」と言います。
 愛語とは、慈しみの心、相手を思いやる心から出てくるのであって、すぐに、いつでも口にできるようになるものでもありません。
 やさしい慈しみの心は、普段から自己中心的ではなく、人を気遣う生活の中で育まれます。そのような生活を心がけることで自然と愛語が身につき、「ことば」となって出てくるということです。
posted by 正翁寺 at 13:52| 日記

2013年03月03日

禅の友3月号

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禅のことば「生死流転」酒井大岳
 「しょうじるてん」と読みます。ここで生死というのは、人間の「生まれ・死ぬ」ことではありません。この世の一切のものが、一瞬として止(とど)まることなく、絶えず変化し動いていることを指します。

・特集「学ぶ」(P,1)
 人は、より良く生きるために、多くのことを学び続ける。学んだことを上手に活(い)かしながら、人生をより豊かなものにしようとしているからである。
 一度、聞いたり、見たりしただけですぐに自分のものとして学びとってしまう人。何度、聞いたり、見たりしてもなかなか身につかない人。同じことを何度も繰り返さないと覚えられない人。人さまざまである。そして、早く覚えたから「よい」というわけでもない。
 効率性が求められている現代社会にとって、人はとかく即効性だけでものごとを判断しがちである。すると、時間をかけて学ぶことは否定される。すべての判断が、「善か、悪か」「損か、得か」「早いか、遅いか」に分かれてしまうのである。しかし、人には、時間をかけなければ学べないこともある。
 たとえば、礼儀を身につけること、他人(相手)をよく知ること、辛抱すること、努力すること、……などである。

「四摂法御和讃(ししょうぼうごわさん)」谷垣政道(P,9)
 「愛語(あいご)」とは、人と接する時、常に慈(いつく)しみの心を持ち、そして慈しみのある言葉を掛けることを言います。親が子を思うような、慈しみの心から発せられた言葉なのです。慈しみを持った言葉が人の心を動かし、心を動かされた人が今度は慈しみのある言葉を発するようになる。そういう力がこの「愛語」にはあるのです。
 私たちの周りには、自分の意に沿う人ばかりではありません。すべての人が生きているのです。大切な生命を生きているのです。皆が、大切な生命を生きていることを知った時、どうしてそれを害することができるでしょうか。たった一度の今の人生を、お互いに安らぎを持った人生にしようではありませんか。

posted by 正翁寺 at 16:21| 日記

2013年01月30日

禅の友2月号

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「もののいのち」守長修浩(p,18)
 物には命があると思うと一つ一つの物の扱いが丁寧になり、思いやりが生まれてきます。物や人にもありがとうと感謝をする心も生まれてきます。そして、感謝の心が持てると、次第に「生かされている」という謙虚な気持ちも芽生えてくるのです。
 永平寺を開かれた道元禅師は「眼睛(がんせい)なる常什物(じょうじゅうもつ)を護借(ごしゃく)せよ」と、物を粗末に扱うことを戒め、物を自分の目の玉、つまり命のように大切に扱いなさい、と記しています。
 このお言葉はただ「物を大切にね」と言っているだけではありません。物に命があるように扱うことは、ただ物を大切にするということだけではなく、その先にある私たちの「生かされている」という生き方につながるということをおっしゃっているのです。
posted by 正翁寺 at 17:20| 日記

2013年01月02日

禅の友1月号

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禅のことば「一期一会」 酒井大岳
 宇宙物理学者の佐治晴夫先生がおっしゃっていました。「地球が生まれて46億年、まだ一度として同じ形の雲が出たことはないのですよ」と。
 これは、雲のことだけを言われたわけではありません。宇宙全体が刻一刻と変化をしているのであるから、この世にいつも同じ姿をしているものなど一つもないのだ、と言われているのです。
 人間も動物も花も鳥も朝日も夕日も、すべて一回かぎりの出会いであり、もう二度と会うことはありません。この一年、人に、物に、真心をもって接してゆきたいものです。

「おせち料理と食の本」 青木千恵(P,10)
 お弁当やお総菜など、家庭外で調理された食品を購入して家や仕事場で食べる、外食でなく「中食」の市場は伸び続けている。女性の社会進出、単身世帯の増加、高齢化などが背景といわれる。
 岩村暢子さんの「変わる家族 変わる食卓」などの著作を読むと、「洗い物を出したくないのでパックのまま出す」「ハンバーグが嫌いな夫はレトルトカレー」…と、現代の家庭の食卓は異様な状態である。家族一人ひとり、食べる時間もバラバラな「勝手食い」が普通になっている。
 女優であり文筆業にも長けていた沢村貞子さんの「わたしの献立日記」は、バブル景気のさなかの1988年に刊行された。世界中の食べ物が街にあふれ、料理人たちがあそこの味がどう、と言いあう「総グルメ時代」に「食物の本物ってなあに?」と思案し、悩んだ果てに
「いま、食べたいと思うものを、自分に丁度いいだけ。つまり寒いときは温かいもの、暑いときは冷たいものを、気どらず、構えず、ゆっくり、楽しみながら食べること」が、「最高の贅沢」と考えた。レシピ本、グルメ本ではない。その人の経験から生まれた生き方の本だ。

道元さまが教えてくれた「心のコンパス」
 晴山俊英(P,12)
 道元さまは、「自分が愚か者であるからとか、素質がないからなどと卑下してはいけない。」と言われています。
 過去の偉い仏さまも同じ思いを経て仏の道を成し遂げたのだから、「大丈夫、君たちも偉い仏さま(人)になれるのだ。勝手に自分に見切りを付けるものではないぞ。」と示されたのです。
 その上で、「今の命がある間にやる気を起こさなければ、いつの命を待ってやるというのか」と、奨励しています。

posted by 正翁寺 at 15:18| 日記

2012年11月29日

禅の友12月号

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・特集「修める」(P,2)
 ローマの安心道場で修行しているカッペリ・グリエルモ(僧名道龍どうりゅう)さんは、ダンサーでもある。カソリックの家庭に生まれた道龍さんは、子供の頃から教会行事に積極的に関わってきた。しかしある時期に「もっとほかに何かあるのでは?」と疑問を抱く。
 「禅には、宗教に入るための技術があることが魅力でした。キリスト教には、祈りの姿に形はありません。禅には、息を整える、姿勢を整えるという形があります。ダンサーとしての私には、身体を動かすことによって、心を整えるということが興味深かったのです。
 また、耳鳴りがする、血圧が高いなど身体的コンプレックスに悩まされていた私は、この行を修めることによって、自分を変えられるのではないか、とも思ったのです。
 しかし、坐禅を通じて、自分は自分以外になれるものではないことを自覚しました。<スミレはスミレ、バラはバラ>。自分は自分でしかないのです。」

「ちりりんちん」務臺孝尚(P,8)
 12月8日は、お釈迦さまが真理を悟られた成道の日です。お釈迦さまが悟られた真理を一言で表現すれば、それは「縁起の法(えんぎのほう)」ということです。「世の中の一切(すべて)のものは、さまざまな原因や縁に依って生じ、また生滅変化をくり返し、互いに関わり合って存在している」ということです。
 お釈迦さまは『ダンマパダ』(法句経・真理のことば)の中で
「人の生をうくることはかたく、やがて死すべきものの生命(いのち)あるはありがたし、正法(おしえ)を耳にするはかたく、諸仏の世に出ずるもありがたし」と説かれています。

「老心」西古孝志(P,26)
 「老心(ろうしん)」
 これは、永平寺を開かれた道元禅師が書かれた「典座教訓(てんぞきょうくん)」に出てくる言葉です。
 「親切心」または「思いやり」という意味です。私は、茶道の中で「老心」とは何かを学びました。
 私の地元、島根県の出雲地方はお茶の盛んな地域です。 松江城の殿さまであった、松平不昧(ふまい)公の言葉に、「客に恥ずかしい思いをさせるということは、亭主の心入れの足りないことと思いなさい。客の心になって亭主をし、亭主の心になって客をしなさい」という教えがあります。

posted by 正翁寺 at 17:07| 日記

2012年10月29日

禅の友11月号

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特集「遊ぶ」(P,2)
 「東北地方の話しです。理科のテストに<氷は溶けたら何になるか>という問題が出ました。多くの子どもが<水になる>と答えた中に、一人だけ<春になる>と答えた子がいました。理科のテストですから、答えはもちろん<×>です。しかし、その答案を返す時に、先生がひと言、<これが理科のテストでなかったら百点なのに>などと付け加えるだけで、その子の心は和むでしょう」
 心を遊ばせることは、子どもだけでなく、周りの大人にも求められている。

posted by 正翁寺 at 14:22| 日記

2012年09月30日

禅の友10月号

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特集「甘える」(P,2)
 いじめに遭っている人、引きこもりの人に対する手立てはあるのだろうか。カウンセラーの富田富士也さんは、この状況を打開するのは、家庭しかないと言う。とにかくお互いが思ったことを話し合えることが基本。「それには、他人に甘えることのできる人になることです。甘えることは、他人に依存することではありません。甘えることには主体性があります。他人に素直になること、飛び込んでいくこと、信じる勇気を持つこと。それが甘えることです。相手に受け入れられず、傷つくこともあるでしょう。しかし、始めから傷つくことを恐れてはいけません。
 全ての人は、困難な状況に出会うと苦しみます。しかし、苦しみには立ち向かっていくしかないのです。、その力を育てることです。
 そんなとき、傍らに親(身近な人)の存在が必要です。ただ傍らにいて見ているだけで十分です。傍らで自分を見てくれてる人がいる、と気づかせることです。」

読者の広場「お年をいただいて」(P,23)
 定期検診に行った病院で、老婦人が知人と「ここまで年を頂いてきたことに感謝していますよ」と話していた言葉が今も耳に残っています。「年は取りたくない」と口に出すのが常なのですが、この老婦人の一言に私はハッとし、自らを戒めております。
(岩手県82歳男性)
posted by 正翁寺 at 17:25| 日記

2012年08月28日

禅の友9月号

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特集「伝える」P,2
 現代はものごと(技能)を正しく伝えるのが難しい時代だ。テレビや新聞だけでなく、インターネットの普及によって、ある技能を取得しようと情報を求めると、多くの情報がさまざまな方法で飛び込んでくる。簡単に知識を得ることができる一方、どの情報が自分に合った情報なのかが分からなくなってしまうことがよくある。
 自分にとって必要な情報も、まったく必要のない情報も、同じ重みをもって存在しているからである。
 しかもそのほとんどが自分には関係がないもの。必要のない情報が、あたかも重要な情報であるかのように時々刻々と流され続けている。そして、その必要のない情報に惑わされ、時に、人は自分自身をも見失ってしまう。
 とくに、一つの技能を伝承・習得する時には、確かな知識や技術の獲得が欠かせない。いまもなお受け継がれている口伝による継承のあり方を探る。
posted by 正翁寺 at 14:31| 日記

2012年08月02日

禅の友8月号

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処暑(P,30)大本山永平寺
 今月二十三日は「二十四節気」の一つである処暑を迎えます。
 さて、道元禅師ご在世の永平寺と現代の永平寺では生活様式が変わりました。劇的な違いは電気、ガス、水道を用いるようになったことです。
 用いることはよいですが、使い放題の生活では道元禅師の修行観に大きく背くことになるでしょう。
 しかし道元禅師の教えと戒めを守り修行生活を「工夫」していけば自ずと「節約」につながるのです。
 夏は暑く、冬は寒い。自然の摂理に従う生活を昔と変わらず現在も営んでいます。
 しかし、私どもの修行は寒暑の苦しみを課すことが目的ではありません。
 夏はわずかな涼を用い、冬は少しの暖を用いて善き環境を整え坐禅するのです。読者の皆様も「わずか・少し」を生活の中で工夫されてみてはいかがでしょうか。

posted by 正翁寺 at 14:01| 日記

2012年06月28日

禅の友7月号

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「以心伝心」酒井大岳(P,1)
 いしんでんしんと読みます。さとりの極意を、言葉や文字を用いないで、師から子へと直接に伝えることを言います。しかし一般的にはごく軽い意味で「心から心へ伝えること」として解して差し支えありません。
 女子高校へ四十数年勤めた林さんは、離任式の時体育館の壇上で、一言も口にすることができませんでした。何か言おうとすると胸が詰まって声が出なくなってしまうのでした。
 しばらく立っているうちに、生徒たちの間にすすり泣く声が起こり、それはたちまち全館に広がり、職員もみな涙を落としました。
 だれからも慕われていた林さんに、職を去る時の挨拶の言葉はなかったのです。 深く一礼をして壇上を去る林さんに、七百人の拍手はやみませんでした。 林さんの思いは生徒に伝わり、生徒の思いは林さんに伝わりました。

「偲ぶ」(P,2)
 亡き人のことを思い出し、その思い出に浸るだけでは供養になりません。故人の生き方に学び、それを実践し、お陰様でこのように暮らしています、と仏さま(故人)に報告することが何よりの供養なのです。
 「偲」を漢和辞典で引くと「うまず休まず努力をする。また、そのさま」と出ています。故人を偲ぶとは故人の継承すべき生き方を、うまず休まず踏襲してゆくことです。

posted by 正翁寺 at 11:03| 日記

2012年05月29日

禅の友6月号

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「食べる」(P,2)
 食に不安を感じるようになったのは一体いつの頃だろうか。虫食いのない白菜やキャベツ、まっすぐに伸びたキュウリや大根などに、何の疑問も覚えず食べ続けてきた。しかし、その食のあり方が、今問われている。
 農業の効率性を求めてきた結果、何十年にもわたって、田畑には多くの除草剤と農薬が散布され続けてきた。見た目には虫のいないきれいな田畑が出現し、虫食いのない野菜が栽培されるようになったのである。
 しかし、数十年の時が経つにしたがって、、除草剤や農薬の副作用が問題になってきた。薬漬けの農作物が、人間の健康に害を及ぼすことが次第に明らかになってきたのである。
 また、田畑から消えた害虫とともに、作物には悪影響をもたらさない生き物までもが途絶えるようになってきたのである。さらには、田畑に散布された除草剤や農薬が、排水とともに河川、さらには海に注ぎ込むことによって汚染されているとの問題も生じてきた。魚介類も汚染されていたのである。
 片木明(かたぎあきら)さんは、お茶の無農薬栽培を始めたものの、虫によりほとんど収穫はなく、周りからは「お前は、お茶作りでなく、虫作りをしているのか」と揶揄(やゆ)された。
 そして三年目に、以前の四割ほどの収穫ができた。気が付くと、無農薬になったことで、畑には害虫の天敵も戻ってきてくれたのである。
 そして五年経った頃からは、農薬散布の茶園と同じような収穫量を上げられるようになった。そればかりでなく、無農薬茶園は、寒さ暑さにも、新しい害虫にも強いことが分かってきた。お茶の木自体に環境の変化に対応する力があるのである。

「入梅」永平寺(P,30)
 福井の六月は湿度が高く、永平寺は周囲を深い山に囲まれているため尋常ではない湿度を帯びます。
 永平寺の修行僧たちは、この高湿度を経験するのですが、体力が少しずつ奪われていくことにとても驚かされます。
 睡眠不足も重なり慢性的な気怠さがしばらく続きますが、だからといって修行がやむことはありません。
 暑ければ冷房器具、寒ければ暖房器具、蒸し暑ければ除湿器具といった暮らしを入門前は当たり前のようにしてきた修行僧たちですが、ここでの彼らには無縁の存在です。
 しかしそのおかげで「辛抱する」ことを学ぶとても大切な機会でもあります。
 「辛抱」とは辞書を引けば意味は分かり、修行僧全員が理解していると思われる熟語ではありますが、それは知識であり観念でしかありません。「辛抱」は実際に辛抱してみないと分からないのです。
 すべてが修行なのだと前向きな気持ちを持つものには、梅雨景色も鮮やかに映ることでしょう。



posted by 正翁寺 at 14:19| 日記

2012年04月29日

禅の友5月号

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「支え合って生きる」鈴木健心(P,26)
 世の中の物事は、色々な条件によって成り立ち、そこにまた別の条件が加わることによってさまざまな形へと変化していきます。このような事柄を、仏教では「縁起(えんぎ)」といいます。
 私の例で言えば、「親元で甘やかされていた私」が、「お寺の修行で、毎朝早起きして料理をする」という条件によって、「家事すべてを当たり前のようにこなしていた母の姿を思い出し、感謝の念を抱かずにはいられない私」へと変化しました。
 私たちは、時に自分の力だけで生きていると「思いあがってしまう」ことがあります。しかし、人が生きていくということには、実は多くの人々の支えがあるのです。だからこそ、自分を支えて下さる人々に感謝しなければなりません。

posted by 正翁寺 at 16:41| 日記

2012年04月12日

禅の友4月号

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「善いことをするには」古川宗弘(p,26)
 「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶつきょう)」
 この言葉を後ろから訳すと、より分かり易くなります。「仏様のみ教えとは、まず自分自身の心を浄(きよ)めていく、その心で行動する、そうすれば諸悪を作ろうにも作れない」となります。
 この中で一番大事な「心を浄めていく」とは、自分の欲望を離れ、自分の利益だけを考えることなく、他人のことも考えることです。
 そのような浄らかな心で行動するならば、、悪いことをする余地もなく、しようにもできないのです。もし自分の心を浄めずによいことをしたつもりになると、それは独りよがりになり、見返りを求めたものになってしまいます。


posted by 正翁寺 at 14:30| 日記