2017年03月29日

世のために 学問する

 学問って自分のためにするものでしょう?

 さて、仏教に「利他(りた)」という教えがあります。

 利他とは、他に利益や幸福を与え、救済につとめることをいいます。

 曹洞宗の開祖(かいそ)、道元禅師(どうげんぜんじ)は、「船を置いたり、橋を架けるのも利他の行いですよ」とお示しです。

 そうです、お仕事も利他の行いなんです。

 『おれは誰の世話にもならねえ』と言う方がいますが、よくよく考えてみますと、私たちは様々な社会の恩恵にあずかっています。

 まず始めにオギャーと生まれた時点で、すでに病院やお医者さんのお世話になっている。

 電車もバスも船も、水道もガスも電気も、消防も警察も学校も、農業も漁業も畜産業も、郵便も道路もスーパーも…

 これらが無い世の中を想像してみて下さい。考えられないでしょう。すべてのお世話になっています。

 お仕事は、利益を追求すると同時に、世の中に利益や幸福を与えています。

 いま世の中に起きている深刻な問題は多様にあります。

 例えば、最近は夏が冬よりも長くなってます。その影響で毎年5月に行ってきた草刈りは、4月にやらざる得なくなってしまいました。それにともない海水の温度は上昇し、台風が大型化しています。また、一度に降る雨の量は、極端に多くなってきています。と同時に北極の氷はどんどん溶けていっています。

 どうぞ、点数を取るだけの勉強、親に怒られないための勉強もいいですが、世の中を救うための勉強を、明るく前向きに取り組んでいただきたい。そう願います。

 「情けは人のためならず」ということわざがありますが、

 地域の豊かさ、国の豊かさ、そして地球環境の豊かさは、廻り廻って自分に、さらには子孫に返ってきます。

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posted by 正翁寺 at 14:24| 日記

2017年02月19日

世のために 自己を調(ととの)える

 世のために、自己を調える。

 いやいや、自分のために。お金を稼ぐために。家族のために自分を調えるんじゃないの?

 そのような声が聞こえてきそうですが、さて、お釈迦さまは、「あらゆるものごとは、みな縁起(えんぎ)している」と説かれました。

 縁起って、「縁起がいい」とか「縁起でもない」とか、普段使われている縁起ですが、縁起にはもう一つ意味があります。それは、「この世のあらゆるものは、縁(えん)によって起こっている」という意味です。つまり、ここでいう『縁起』とは、「結果を引き起こす原因」という意味です。

 何もない青空に、気象条件という様々な「縁(結果を引き起こす原因)」が加わり雲が発生します。さらに様々な縁により、やがて雲は雨雲に発達し、雨が降ります。山からしぼれた雨水は、低い方へと集まり川となる。私たちは、その水を引き込んで、飲み水や田畑に利用して、飲んだり食べたりして今日の命が保たれ、生まれては死に、命のバトンが受け渡され、今呼吸をしながら、正翁寺のホームページを見ている。

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 今周りで起こっている環境、今自分の中で起こっている心境は、様々な縁によって起こっています。つまり、私は縁起しています。

 身につけている、服も、めがねも、食べ物も、電車も、道路も、字が読めることも、足し算ができることも、温暖化した環境も、原因があって起こっています。

 そこで、お釈迦さまは、あらゆるものごとは、縁によって起こっているのだから、心の状態をよく観察し、苦しい結果となる原因(悪)を防ぎ、楽な結果となる原因(善)に励みなさいと説かれています。

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 縁起の法則に当てはめてみますと、世界中の存在・事象は、互いに関わり合っていて、その関わりを離れては存在できません。つまり、この世界に存在するものは、すべて支え合い、助け合って、蜘蛛の巣状のネットワークの中で、持ちつ持たれつ生かされている。と同時に、他を生かしてもいます。

 そう、自分をよく調えることは、結局周りに善い影響を与えることになってしまうのです。

 ものに溢れ、何の妨げもなく平和に過ごせる日本の私たちにできることは、情報に振り回されず、肉や酒やゲームに振り回されない、堅固な自分をつくること。

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 堅固な自分作りは、日常生活を調えること。さらには、腸内環境を調え、呼吸を調えて、そして難儀な心を調えましょう。世のために。



posted by 正翁寺 at 14:57| 日記

2017年01月01日

浄(きよ)く 正しく 堂堂と 

 皆さま新年を迎え、新たな気持ちが湧いていることでしょう。どのような目標や願いを掲げましたでしょうか。

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 さて、お釈迦さまの教えに、「善(よ)いことをし、悪(わる)いことをせず、心を浄(きよ)めていくこと、これが過去のお悟りを開かれた仏さま方の教えである」とあります。これは平成28年10月にもご紹介しました。
 
 善いことをして、悪いことをしないということぐらい、小さい子でも分かることです。しかし、ポイントは、「心を浄(きよ)めていくこと」です。私たちは、何の戒め(いましめ)もなく生活していては、欲望という汚れが少しずつ心に付着し蓄積していきます。

 それを取り払うプロセスが、お釈迦さまから伝わる八正道(はっしょうどう)です。八正道は、八つの聖なる道といわれることから、八聖道(はっしょうどう)と表されることもあります。

 @正見 …適正な見解
 A正思 …適正な分別
 B正語 …適正な言葉
 C正業 …適正な行為
 D正命 …適正な生活
 E正精進…適正な努力
 F正念 …適正な心構え
 G正定 …適正な心の統一

 すべてに「正」が付き、すべての訳に「適正な」とあります。お釈迦さまの教えの原点は、「中道(ちゅうどう)」といって、欲望のおもむくままの快楽主義でもなく、不眠、不休で断食(だんじき)するような苦しい修行でもなく、両極端を離れます。

 それからよく勘違いされるのは、お釈迦さまの教えは、欲望を無くすのではありません。例えば、金銭欲がなくなってしまったら、働く意欲が湧いてきませんし、経済は止まってしまいます。性欲がなくなれば、子孫が繁栄しなくなります。名誉欲がなくなれば、組織を善い方へ導くリーダーが出てこなくなります。

 お釈迦さまの教えは、離欲(りよく)といって、欲に依存したり執着するのではなく、欲との適正な距離を保ちます。欲望を程々に、適正に制御(コントロール)しましょうね。というものなのです。

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 さて、八正道(はっしょうどう)を例に挙げますと、坐禅(ざぜん)は、姿勢を調えて、呼吸を調えて、ぐちゃぐちゃした心を統一させる「G正定(しょうじょう)」に当たります。また、生き物をむやみに殺さない、与えられていないものを盗まないといった教えは「C正業(しょうごう)」に当たり、嘘を言わない、他人をけなさないといった教えは「B正語(しょうご)」に当たります。
 
 また、不眠不休で働き続けることは、D適正な生活とはいえませんし、E適正な努力ともいえません。また、誰かの幸せを聞いたとき、喜びよりもねたんでしまう心は、F適正な心構えとはいえません。

 この八正道に当てはめた苦でもなく楽でもない、中道の日常生活が、心に付着するゴミを浄化し、浄(きよ)らかな仏の心が少しずつ磨き現れてきます。

 心というフィルターを通して、見たり感じたりする私たちは、浄らかな心が現れることで、@安らかで、楽しく自由な世界が広がっていくことでしょう。

 しかし、安らいだ心でさえも、気圧の関係や、二日酔いなどで、人の心は日々変化しています。そんなときでも八正道を知っていれば、大きく外れそうな心を、正常な座標軸に近づけておくこともできます。

 紛争や食料難などがない、平穏な日本に住む私たちが、より高みを目指す目標は、八正道の日常生活に自分を当てはめて、善く自分を調えていき、自分が持つ生命機能を上向きにさせていくことです。

 ゲームやスマートフォンとの程よい距離を保ち、適正な日常生活を心がける。そうして心を浄らかにし、堂堂と世界を引っ張っていく。それくらいの大きな気概を持っていきたいものです。

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最後に、女優の綾瀬はるかさんは、NHKのおはよう日本でこのような目標を掲げていました。

 「まあるい心」

 忙しくなったりすると、とがった心になってしまうそうです。

 浄(きよ)く、正しく、堂堂と、まあるい心で、日常生活を歩んでまいりましょう。本年もよろしくお願いします。


 
posted by 正翁寺 at 17:46| 日記

2016年12月03日

平成二十八年師走、芝は青く、草は枯れず。これでいいのか。

 十二月です。早いもので、今年も残すところあと一ヶ月を切りました。春のように暖かい日が続き、大変助かります。しかし、12月にもかかわらずこの暖かさ、何か気になりませんか。

 さて、正翁寺の本堂に向かって左の方に、原っぱがあります。例年ここの草は、1月頃には枯れてしまい、辺りは茶一色となります。そして3月を過ぎるころ、茶色の原っぱの中に緑色をした新芽がちらほら色づいてきて、春の喜びを感じる。毎年これを当たり前のことのように思っていました。しかし、平成28年1月、2月と、原っぱの草は緑色のまま。そして、草は枯れることなく3月を迎えるこことなったのです。

 曹洞宗を開かれた、道元禅師(どうげんぜんじ)は、鎌倉時代に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)という書物を残されました。その中にこのようなことが書かれています。

 『因果(いんが)の道理、歴然(れきねん)としてわたくしなし』(正法眼蔵『深信因果(じんしんいんが)』より)

 「原因と結果の関係性は、ハッキリとしていてごまかしようがなく、公平無私(こうへいむし)なのですよ」といった内容です。結果には、必ず原因があり、その「因果の法則」は公平で、ごまかせません。

 例えば、透明なコップにきれいな水が入っているとします。その中に、黒い墨を一滴ずつ入れていきます。すると、コップの水はごまかしようがなく、黒色に染まっていきます。「黒色に染まった水」という結果の原因は、「墨」です。

 また、肥満になる原因を考えていくと、アルコールだったり食事の内容、あるいは食事の時間やタイミングなど様々な原因が考えられます。さらに、内面的な原因を考えていくと、ストレスであったり、静寂な時間が少なかったり、運動不足であったり、呼吸が浅かったり、腸内環境が整っていない等々、様々な因果関係が見えてきます。

 そうやって原因を突き詰めて、根本を少しずつ善良な方向へもっていくことは、実はお釈迦さまが説かれた「縁起(えんぎ)」の教えなのです。

 自分自身に善い原因を与えて、すっきりとした状態をつくっていきます。「稲盛和夫と福島の子どもたち〜人は何のために生きるのか」という本の中で、「ひとは、善いことを思い、善いことを実行していくことで、善い運命をつくっていくことができるんですよ」と、「因果の法則」について書かれています。 

 温暖化している地球に、何らかの善い原因を与えていく、もしくは悪い原因ををさぐって、少しずつ取り除いていく。そんな時が来ているのではないでしょうか。温暖化はすぐそこに迫っているどころか、もう結果として現れています。それに対する意識は、国民の、いや、地球人の必須課題といえるでしょう。

 遊ぶことも、食べることも、お金を稼ぐことも、全ては、地球環境が落ち着いていることが大前提ですので。

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◎参考:正翁寺報「まんぷく通信」.pdf


 
posted by 正翁寺 at 10:41| 日記

2016年10月16日

技術に限界あれども 心の伸びしろは無限である      〜広島カープコーチ 石井琢朗

 石井琢朗コーチは、2008年までの20年横浜ベイスターズで活躍し(入団当初は横浜大洋ホエールズ)、その後広島カープに移籍し、4年後に引退。現在はコーチとして活躍しています。ちなみに、2006年には史上34人目となる2000本安打を達成しています。
 
 石井さんは、ベイスターズ時代の20年は、打つ、走る、守るといった「技術の伸びしろ」を求め続けていました。しかし、広島に移籍してからは、一つの勝利、一つの守備、ファンからの声援、なにげない生活での一コマなど、小さなことでも、喜びを感じるように、意識が変わったといいます。

 そして、「何かを得たい」「ほしい」といった意識から、反対に、「与えたい」「カープに恩返しがしたい」と変わっていったそうです。苦悩から見えてきたもの、それは、限界のある技術面ではなく、限界のない「心の伸びしろ」、つまり内面性の大切さだったのです。

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 お釈迦さまのことばに、「善(よ)いことをし、悪いことをせず、心を浄(きよ)めていくのが、過去の悟った仏たちの教えである」とあります。善いことをし、悪いことをしないのは分かりますが、ポイントは、心を浄めることです。それが、石井さんが言っている「与えよう」という意識です。
 
 落ち葉をたった5分だけ掃くにせよ、お皿をたった10枚だけ洗うにせよ、「与えよう」という意識を持つだけでも、心がほんの少しでしょうけれど、浄められ、喜びを感じられる意識が、少〜しずつ醸(かも)し出されてくる。そんな小さな繰り返しと積み重ねに因(よ)るものが、安楽な、喜びを感じられる世界なのではないかと思います。

 石井さんは言います、「心の伸びしろ」を意識するだけでも、人間的にも強くなれます。私たちには、まだまだ成長する余地が残されているのですよと語っています。

 技術には、限界や個人差はありますが、心の伸びしろは、無限に伸ばすことができるのです。 
         
   
   【参考文献「心の伸びしろ」石井琢朗著】

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posted by 正翁寺 at 10:17| 日記

2016年08月05日

墓参りや仏壇参りが、子どものやさしさを、醸成(じょうせい)させる


・醸成(じょうせい)…ある気運・情勢などを次第に作り上げて行くこと。醸(かも)し出すこと。(三省堂『大辞林』より)



 日本香堂と尾木直樹師が、子どもたちの「供養経験」と「やさしさ」の関係性を調査し、その結果が発表されました。

 調査結果に対し、尾木師は、「教科書や口頭だけの道徳教育よりも、具体的な「祈る行為」が、確実に子どもたちの中にコンパッション(やさしさ・思いやり)を醸成し、高めることを暗示している」とのコメントも寄せられているそうです。

 さらに、「子どもたちの中で、『先祖』をはじめとする目に見えない対象への感謝や畏敬の念が、墓参り・仏壇参りといった習慣的な行為を通して意識化され、内面化され、それが『他者へのコンパッション(やさしさ・思いやり)』の涵養(かんよう=徐々になじませて養い育てること)にもつながっている」との可能性が浮かび上がり、

我が国の家庭文化として、長きにわたり個人の人格形成や精神的熟成に寄与してきた「供養」に対する再確認・再評価を現代社会に迫る仮説検証であり得たと思料するものだと、調査結果の中で記されています。

 仏教では、習慣力を大事にします。「修行」という言葉も、サンスクリット語で『バーバナ』と言って、「反復」という意味もあります。

 太陽と連動して早朝に起床し、坐禅をして、呼吸を調えて心を調えて、そして朝のお勤めで、感謝を述べ、皆様の供養と幸せを願う。そして食事をする際は、いま目の前にある食事がどのような経緯でここに運ばれてきたのかを考え、こんな私にこの命を食べる資格があるだろうかと反省し、自己を調えて、他に生かす悟りの道を成し遂げることを誓います。

 こんなことを日々反復していきますと、半年で変わってきます。習慣の力は偉大です。

 先祖供養を通じて、ちょっとした感謝、ちょっとした畏敬の念を日々繰り返していって下さい。

 小さな机に、本尊さまを祀り(曹洞宗の三つ折り三尊仏は三千円位で購入できます)、湯飲み茶碗にお線香を立てる灰を入れれば立派なお仏壇の完成です。毎朝、お水やご飯などを供えて下さい。

 大切なことは、値段よりも日々続けていくこと、そして頭で考える理屈よりも、実践することです。
 
 

 詳しくはこちらをお読み下さいhttp://www.nipponkodo.co.jp/blog/wp/wp-content/uploads/2015/09/8bfc5ffbef190a75752ec2b8149fa8c0.pdf
posted by 正翁寺 at 19:04| 日記

2016年06月18日

水なければ、作物育たず 作物なければ、私育たず 水に感謝!雨に感謝!

 
 よく仏教って何ですかと聞かれることがあります。

 仏教とは、お釈迦さまの教えです。

 では、お釈迦さまの教えとは、何なのでしょうか。

 たくさんの教えの中でも代表的なものは、『縁起(えんぎ)』です。

 よく、「縁起がいい」とか、「縁起でもない」とか使われる『縁起』です。しかし、それとは意味が違います。

 仏教で言う『縁起』とは、「この世のあらゆるものは、縁(えん)によって起こっている」というものです。ここでいう『縁』とは、「結果を引き起こす原因」という意味です。

 例えば、袋に入ったひまわりの種をそのままにしておいても、芽は出てきません。種に土や水、お日様の光、さらに人の愛情といった『縁』が加わることで、芽を出し、成長し、やがて花を咲かせます。

 私たちの命も同じです。私たちも急にそこら辺から生まれてくるのではなく、縁によって生まれてきます。

 ご先祖の出会いの縁でこの世に生まれ、生まれたからといって、そこら辺に放っておかれては死んでしまします。

 ごはんを食べさせてくれる人がいて、便の始末をしてくれる人がいて、字の読み方を教えてくれる人がいて、様々な縁をいただきながら成長していきます。

 特に、私たちは、食べ物を食べていかなければ生きていくことはできません。食べ物が口に入るまでの原因をさかのぼっていくと、作ってくれる人がいて、買ってきてくれる人がいて、買うための費用を得てくれる人がいます。

 さらに、食べ物を生産してくれる人がいて、太陽の恵み、雨の恵みがなければ、その作物は成長していくことはできません。

 雨の日は、あまり快適とはいえませんが、「雨」を「縁起の教え」に照らし合わせてみますと、雨の恵みは、私たちの「生命の源」であることが分かってきます。そう、私たちは、「雨」に感謝してもしきれないほどお世話になっているのです。

 水がなければ、作物は育たなく、作物がなければ、私も育ちません。水に感謝、雨に感謝であります。

 雨の日も晴れの日も、皆様の毎日が、好(よ)き日でありますように。

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posted by 正翁寺 at 09:09| 日記

2016年04月19日

足るを知るべし〜普通に水が飲めて、電気が使えて、眠れることは、実は大変有難いことなのだ〜


知足(ちそく)

「もし、もろもろの苦悩からのがれたいと思うのなら、まさに知足をかんじなさい」(遺教経(ゆいきょうぎょう))

 遺教経は、お釈迦さまが弟子たちへ最期の説法したことが、まとめられたお経です。

 「知足というのは、安らかで楽しいものですよ。足りていることを感じられる人は、例え地上で寝ていたとしても、なお楽しく安らかです。しかし足りていることを感じられない人は、天上界の部屋にいたとしても、満足することはできない。」(遺教経)

 当たり前にあったものを失うと、私たちはそれがいかに有難かったかということに気づかされます。

 電気、ガス、水道。警察、消防、病院。道路、電車、学校。
 もし当たり前にあるものが急になくなっってしまったら、どうでしょうか。

 家族、友人、先生。

 水、食料、空気。

 もしも月がなかったらというタイトルのシアターを、ハウステンボスで見たことがあります。私たちの住む、水と緑にあふれる地球は、月と地球の奇跡的なバランスで成り立っているんだそうです。

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(京都 竜安寺)

 色々な苦悩があるかと思いますが、当たり前にあるこの日常に感謝をして、日々元気に過ごしていきたいものです。

 
posted by 正翁寺 at 19:35| 日記

2016年03月06日

咲く場所 咲く時期は、花によって それぞれ異なる

 暖かい地域で咲く花、寒い地域で咲く花、
 春に咲く花、冬に咲く花、
 花によってそれぞれ異なります。

 人もそれぞれ、花咲く場所や時期は異なることでしょう。

 仏教では、「種」より「畑」を重視します。土壌が良質ならばよく育ち、不毛な畑では優れた種も発芽しません。
 
 前回にも記載した、百年に一人の頭脳と言われた幸田露伴(こうだろはん)は、直接の努力と、間接の努力ということをいっています。直接の努力とは、目の前の目標に向かってする努力。一般的に言われている努力です。

 間接の努力とは、自らの源泉をつくってく努力です。花に例えるなら、「土壌を良質にし、根を養う努力」です。

 それには正しい生活習慣を楽しみます。過去の悪習慣を短時間で改めるのは賢明ではありません。ゆっくりと着実に最善の道を進んでいきます。
 
 正しい生活習慣とは、正しい食事、正しい睡眠、適度な運動です。

 それにプラスして、善行(ぜんぎょう)や坐禅、そして笑いで心の塵(ちり)を掃除します。

 善行とは、お釈迦さまが示された。八正道(はっしょうどう)、八つの聖なる道です。(これについては、寺の会報「まんぷく通信」で解説しています。)

 ただ漠然とテレビや流行にながされていては、心の塵は掃除できません。仏教的な生活習慣で心の塵を掃除して、もって生まれた生命機能をよく調え、イキイキと生きていくための小さな習慣を日々反復していきます。
 
 花咲く時期は、人それぞれ。季節は春でも、心が冬の方もいることでしょう。また、春でも南の島にいるような方もいることでしょう。しかし、これらは永遠ではなく、常に変化しています。調子に乗りすぎず、あるいは落ち込みすぎず、謙虚に間接の努力を反復していきたいものです。
posted by 正翁寺 at 09:25| 日記

2016年01月16日

何も咲かない冬の日は、下へ下へと根を伸ばせ

 努力には二種類ある。一つは、「直接の努力」、もう一つは「間接の努力」。これは、百年に一人の頭脳といわれた、幸田露伴(こうだろはん)のことばです。

 「直接の努力」とは、目の前の目標に全力を尽くすことであり、「間接の努力」とは、準備の努力であり、自分の基礎となり、源泉となる努力であります。
 努力をしてもよい結果につながらないのは、努力の「方向」が悪かったか、「間接の努力」が足りないからだというのが露伴の考えです。

 野球でバッティングやピッチングの練習に励むのは「直接の努力」です。これに対し、ランニングやストレッチ、ウエートトレーニングなどは「間接の努力」といえ、さらに、食事に配慮し、生活習慣を怠らないのはさらなる「間接の努力」といえます。

 さらには、道具を大切にし、相手を思いやり、関係する人に感謝をするなど、さらなる「間接の努力」といえるでしょう。さらには、日常生活のなかで姿勢を正し、呼吸を調えて、生き物をむやみに殺さない、とか、嘘をつかない、とか、自分を誇示し他人をけなさないなどは、自分を磨く「間接の努力」といえるでしょう。

 現代は、便利さ、速さ、享楽性といったことばかりを追求して、「間接の努力」を忘れているように思います。それに対して、厚み、奥行き、重厚さ、といったものは、「間接の努力」によらなければ育むことはできません。

 間接の努力とは、自分の根本を伸ばしていく努力です。 
 
 たとえ知識や技術を磨いても、気持ちがどっしりとしていないと、よい結果につながらなかったり、選択を誤ったりします。しかし、知識や技術が多少おとっていても、厚みが出てきた人は、転職をしようとも、子育てをしようとも、学校が変わろうとも、やがて花を咲かせることでしょう。

 何も咲かない冬の日をすごしたことで、かえって大輪の花を咲かせた人はたくさんいます。



posted by 正翁寺 at 13:21| 日記