2016年10月16日

技術に限界あれども 心の伸びしろは無限である      〜広島カープコーチ 石井琢朗

 石井琢朗コーチは、2008年までの20年横浜ベイスターズで活躍し(入団当初は横浜大洋ホエールズ)、その後広島カープに移籍し、4年後に引退。現在はコーチとして活躍しています。ちなみに、2006年には史上34人目となる2000本安打を達成しています。
 
 石井さんは、ベイスターズ時代の20年は、打つ、走る、守るといった「技術の伸びしろ」を求め続けていました。しかし、広島に移籍してからは、一つの勝利、一つの守備、ファンからの声援、なにげない生活での一コマなど、小さなことでも、喜びを感じるように、意識が変わったといいます。

 そして、「何かを得たい」「ほしい」といった意識から、反対に、「与えたい」「カープに恩返しがしたい」と変わっていったそうです。苦悩から見えてきたもの、それは、限界のある技術面ではなく、限界のない「心の伸びしろ」、つまり内面性の大切さだったのです。

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 お釈迦さまのことばに、「善(よ)いことをし、悪いことをせず、心を浄(きよ)めていくのが、過去の悟った仏たちの教えである」とあります。善いことをし、悪いことをしないのは分かりますが、ポイントは、心を浄めることです。それが、石井さんが言っている「与えよう」という意識です。
 
 落ち葉をたった5分だけ掃くにせよ、お皿をたった10枚だけ洗うにせよ、「与えよう」という意識を持つだけでも、心がほんの少しでしょうけれど、浄められ、喜びを感じられる意識が、少〜しずつ醸(かも)し出されてくる。そんな小さな繰り返しと積み重ねに因(よ)るものが、安楽な、喜びを感じられる世界なのではないかと思います。

 石井さんは言います、「心の伸びしろ」を意識するだけでも、人間的にも強くなれます。私たちには、まだまだ成長する余地が残されているのですよと語っています。

 技術には、限界や個人差はありますが、心の伸びしろは、無限に伸ばすことができるのです。 
         
   
   【参考文献「心の伸びしろ」石井琢朗著】

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posted by 正翁寺 at 10:17| 日記

2016年08月05日

墓参りや仏壇参りが、子どものやさしさを、醸成(じょうせい)させる


・醸成(じょうせい)…ある気運・情勢などを次第に作り上げて行くこと。醸(かも)し出すこと。(三省堂『大辞林』より)



 日本香堂と尾木直樹師が、子どもたちの「供養経験」と「やさしさ」の関係性を調査し、その結果が発表されました。

 調査結果に対し、尾木師は、「教科書や口頭だけの道徳教育よりも、具体的な「祈る行為」が、確実に子どもたちの中にコンパッション(やさしさ・思いやり)を醸成し、高めることを暗示している」とのコメントも寄せられているそうです。

 さらに、「子どもたちの中で、『先祖』をはじめとする目に見えない対象への感謝や畏敬の念が、墓参り・仏壇参りといった習慣的な行為を通して意識化され、内面化され、それが『他者へのコンパッション(やさしさ・思いやり)』の涵養(かんよう=徐々になじませて養い育てること)にもつながっている」との可能性が浮かび上がり、

我が国の家庭文化として、長きにわたり個人の人格形成や精神的熟成に寄与してきた「供養」に対する再確認・再評価を現代社会に迫る仮説検証であり得たと思料するものだと、調査結果の中で記されています。

 仏教では、習慣力を大事にします。「修行」という言葉も、サンスクリット語で『バーバナ』と言って、「反復」という意味もあります。

 太陽と連動して早朝に起床し、坐禅をして、呼吸を調えて心を調えて、そして朝のお勤めで、感謝を述べ、皆様の供養と幸せを願う。そして食事をする際は、いま目の前にある食事がどのような経緯でここに運ばれてきたのかを考え、こんな私にこの命を食べる資格があるだろうかと反省し、自己を調えて、他に生かす悟りの道を成し遂げることを誓います。

 こんなことを日々反復していきますと、半年で変わってきます。習慣の力は偉大です。

 先祖供養を通じて、ちょっとした感謝、ちょっとした畏敬の念を日々繰り返していって下さい。

 小さな机に、本尊さまを祀り(曹洞宗の三つ折り三尊仏は三千円位で購入できます)、湯飲み茶碗にお線香を立てる灰を入れれば立派なお仏壇の完成です。毎朝、お水やご飯などを供えて下さい。

 大切なことは、値段よりも日々続けていくこと、そして頭で考える理屈よりも、実践することです。
 
 

 詳しくはこちらをお読み下さいhttp://www.nipponkodo.co.jp/blog/wp/wp-content/uploads/2015/09/8bfc5ffbef190a75752ec2b8149fa8c0.pdf
posted by 正翁寺 at 19:04| 日記

2016年06月18日

水なければ、作物育たず 作物なければ、私育たず 水に感謝!雨に感謝!

 
 よく仏教って何ですかと聞かれることがあります。

 仏教とは、お釈迦さまの教えです。

 では、お釈迦さまの教えとは、何なのでしょうか。

 たくさんの教えの中でも代表的なものは、『縁起(えんぎ)』です。

 よく、「縁起がいい」とか、「縁起でもない」とか使われる『縁起』です。しかし、それとは意味が違います。

 仏教で言う『縁起』とは、「この世のあらゆるものは、縁(えん)によって起こっている」というものです。ここでいう『縁』とは、「結果を引き起こす原因」という意味です。

 例えば、袋に入ったひまわりの種をそのままにしておいても、芽は出てきません。種に土や水、お日様の光、さらに人の愛情といった『縁』が加わることで、芽を出し、成長し、やがて花を咲かせます。

 私たちの命も同じです。私たちも急にそこら辺から生まれてくるのではなく、縁によって生まれてきます。

 ご先祖の出会いの縁でこの世に生まれ、生まれたからといって、そこら辺に放っておかれては死んでしまします。

 ごはんを食べさせてくれる人がいて、便の始末をしてくれる人がいて、字の読み方を教えてくれる人がいて、様々な縁をいただきながら成長していきます。

 特に、私たちは、食べ物を食べていかなければ生きていくことはできません。食べ物が口に入るまでの原因をさかのぼっていくと、作ってくれる人がいて、買ってきてくれる人がいて、買うための費用を得てくれる人がいます。

 さらに、食べ物を生産してくれる人がいて、太陽の恵み、雨の恵みがなければ、その作物は成長していくことはできません。

 雨の日は、あまり快適とはいえませんが、「雨」を「縁起の教え」に照らし合わせてみますと、雨の恵みは、私たちの「生命の源」であることが分かってきます。そう、私たちは、「雨」に感謝してもしきれないほどお世話になっているのです。

 水がなければ、作物は育たなく、作物がなければ、私も育ちません。水に感謝、雨に感謝であります。

 雨の日も晴れの日も、皆様の毎日が、好(よ)き日でありますように。

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posted by 正翁寺 at 09:09| 日記

2016年04月19日

足るを知るべし〜普通に水が飲めて、電気が使えて、眠れることは、実は大変有難いことなのだ〜


知足(ちそく)

「もし、もろもろの苦悩からのがれたいと思うのなら、まさに知足をかんじなさい」(遺教経(ゆいきょうぎょう))

 遺教経は、お釈迦さまが弟子たちへ最期の説法したことが、まとめられたお経です。

 「知足というのは、安らかで楽しいものですよ。足りていることを感じられる人は、例え地上で寝ていたとしても、なお楽しく安らかです。しかし足りていることを感じられない人は、天上界の部屋にいたとしても、満足することはできない。」(遺教経)

 当たり前にあったものを失うと、私たちはそれがいかに有難かったかということに気づかされます。

 電気、ガス、水道。警察、消防、病院。道路、電車、学校。
 もし当たり前にあるものが急になくなっってしまったら、どうでしょうか。

 家族、友人、先生。

 水、食料、空気。

 もしも月がなかったらというタイトルのシアターを、ハウステンボスで見たことがあります。私たちの住む、水と緑にあふれる地球は、月と地球の奇跡的なバランスで成り立っているんだそうです。

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(京都 竜安寺)

 色々な苦悩があるかと思いますが、当たり前にあるこの日常に感謝をして、日々元気に過ごしていきたいものです。

 
posted by 正翁寺 at 19:35| 日記

2016年03月06日

咲く場所 咲く時期は、花によって それぞれ異なる

 暖かい地域で咲く花、寒い地域で咲く花、
 春に咲く花、冬に咲く花、
 花によってそれぞれ異なります。

 人もそれぞれ、花咲く場所や時期は異なることでしょう。

 仏教では、「種」より「畑」を重視します。土壌が良質ならばよく育ち、不毛な畑では優れた種も発芽しません。
 
 前回にも記載した、百年に一人の頭脳と言われた幸田露伴(こうだろはん)は、直接の努力と、間接の努力ということをいっています。直接の努力とは、目の前の目標に向かってする努力。一般的に言われている努力です。

 間接の努力とは、自らの源泉をつくってく努力です。花に例えるなら、「土壌を良質にし、根を養う努力」です。

 それには正しい生活習慣を楽しみます。過去の悪習慣を短時間で改めるのは賢明ではありません。ゆっくりと着実に最善の道を進んでいきます。
 
 正しい生活習慣とは、正しい食事、正しい睡眠、適度な運動です。

 それにプラスして、善行(ぜんぎょう)や坐禅、そして笑いで心の塵(ちり)を掃除します。

 善行とは、お釈迦さまが示された。八正道(はっしょうどう)、八つの聖なる道です。(これについては、寺の会報「まんぷく通信」で解説しています。)

 ただ漠然とテレビや流行にながされていては、心の塵は掃除できません。仏教的な生活習慣で心の塵を掃除して、もって生まれた生命機能をよく調え、イキイキと生きていくための小さな習慣を日々反復していきます。
 
 花咲く時期は、人それぞれ。季節は春でも、心が冬の方もいることでしょう。また、春でも南の島にいるような方もいることでしょう。しかし、これらは永遠ではなく、常に変化しています。調子に乗りすぎず、あるいは落ち込みすぎず、謙虚に間接の努力を反復していきたいものです。
posted by 正翁寺 at 09:25| 日記

2016年01月16日

何も咲かない冬の日は、下へ下へと根を伸ばせ

 努力には二種類ある。一つは、「直接の努力」、もう一つは「間接の努力」。これは、百年に一人の頭脳といわれた、幸田露伴(こうだろはん)のことばです。

 「直接の努力」とは、目の前の目標に全力を尽くすことであり、「間接の努力」とは、準備の努力であり、自分の基礎となり、源泉となる努力であります。
 努力をしてもよい結果につながらないのは、努力の「方向」が悪かったか、「間接の努力」が足りないからだというのが露伴の考えです。

 野球でバッティングやピッチングの練習に励むのは「直接の努力」です。これに対し、ランニングやストレッチ、ウエートトレーニングなどは「間接の努力」といえ、さらに、食事に配慮し、生活習慣を怠らないのはさらなる「間接の努力」といえます。

 さらには、道具を大切にし、相手を思いやり、関係する人に感謝をするなど、さらなる「間接の努力」といえるでしょう。さらには、日常生活のなかで姿勢を正し、呼吸を調えて、生き物をむやみに殺さない、とか、嘘をつかない、とか、自分を誇示し他人をけなさないなどは、自分を磨く「間接の努力」といえるでしょう。

 現代は、便利さ、速さ、享楽性といったことばかりを追求して、「間接の努力」を忘れているように思います。それに対して、厚み、奥行き、重厚さ、といったものは、「間接の努力」によらなければ育むことはできません。

 間接の努力とは、自分の根本を伸ばしていく努力です。 
 
 たとえ知識や技術を磨いても、気持ちがどっしりとしていないと、よい結果につながらなかったり、選択を誤ったりします。しかし、知識や技術が多少おとっていても、厚みが出てきた人は、転職をしようとも、子育てをしようとも、学校が変わろうとも、やがて花を咲かせることでしょう。

 何も咲かない冬の日をすごしたことで、かえって大輪の花を咲かせた人はたくさんいます。



posted by 正翁寺 at 13:21| 日記

2016年01月01日

日本を楽しい国にしよう。明るい国にしよう。


 念ずれば花ひらくで知られている坂村真民(さかむらしんみん)さんの「一日一言」より一部を抜粋したものですが、すべてを掲載するとこのようになります。

    〜願い〜
  日本を
  楽しい国にしよう
  明るい国にしよう
  国は小さいけれど
  住みよい国にしよう
  日本に生まれてきてよかったと
  言えるような
  国造りをしよう
  これが二十一世紀の日本への
  わたしの願いだ

 楽しい国、明るい国、生まれてきてよかったと言える国造り。真民さんの素晴らしい願いです。
 では、そのような素晴らしい国造りをするには、もっと街中キラキラして明るく、もっと勉強や仕事を減らして楽しくすればいいではないか。と思う方もいるかもしれません。

 ところで、ものごとの感じ方、とらえ方って人によって違いますね。2500年前にお釈迦さまは、あらゆるものごとは、「心」に基づいていて、「心」を通して、楽しいとか苦しいとか感じるから、感じる基となる「心」をととのえていきましょうと説かれました。

 きゃりーぱみゅぱみゅさんの「つけまつける」という歌の中に、「同じ空がどう見えるかは、心の角度次第だから」とありますが、全く同じです。

 私たちは、同じものでも楽しく感じたり、不満に感じたりするのは、「心」に基(もと)づいています。キラキラした街を造っていくことも楽しいけれども、仏教では、楽しいと感じる「心」をつくっていきます。

 では、心をととのえるにはどうすればいいのでしょうか。アプローチは沢山ありますが、生活習慣をととのえることが前提となるでしょう。そして一つには坐禅の呼吸です。私たちは、血液の流れや心臓の動きをコントロールすることはできませんが、呼吸はコントロールすることができます。あごを引いて、肩を開いて姿勢をととのえ、へそ下を感じながらゆっくりと息の出し入れを繰り返します。

 1月3日の読売新聞によると、今から三百年ほど前の平均寿命は、なんと現代の半分以下。さらに三分の一の子どもが5歳未満でなくなっていたそうです。そして現代は、電気や交通など多くの発明のおかげで、日本や米国では当たり前のように暖房やエアコンを使っている。そして夜でも読書ができ、水をくむために遠くに行く必要もなく、衛生環境も向上し、健康な生活を送ることができる。 

 生活環境世界トップレベルの日本には、あと何が必要でしょうか。宇宙進出でしょうか。それともスマートフォンのさらなる進化でしょうか。それは、自分の心をととのえることです。

 心がととのってくると、今まで気づかなかったことに感謝できたり、利他的な心が磨き現れてきます。そしていつしか利己的な自分にさよならができることでしょう。 

 楽しい国だなあ、明るい国だなあ、生まれてきてよかったなあと言えるような自分造りを一緒にしていきましょう。
 皆さまが、善きご縁にたくさん出会えることを、心より祈念申し上げます。  合掌

posted by 正翁寺 at 17:45| 日記

2015年12月19日

煤(すす)はきて 心の煤は かえり見ず


 この句は、松尾芭蕉門下の俳人・越智越人(おちえつじん)が七十五歳を迎えた新年の作で、前夜の除夜の感想を吟(ぎん)じた句です。

 歳(とし)の瀬にあたり家の内外の清掃は隈(くま)なくきれいにしたが、いちばん肝心な心の煤はらいを怠って正月を迎えた実感を吟じたものです。だれしも共感を覚えましょう。

 台所は煤(すす)けなくなっても、心の煤のたまることは昔も今も変わりません。むしろ昔より今の方が、心の煤の質は多様になり、量も多くなったのではないでしょうか。暮の大掃除をしながら、この句を杖言葉にする必要があります。
(『松原泰道 きょうの杖言葉 一日一言』より抜粋)



 
posted by 正翁寺 at 09:01| 日記

2015年10月26日

世界平和への第一歩は、 先(ま)ず自分の心を平和にすること

 平和を実現しようとして苦労しても、自分自身の心に余裕がなかったり、いらいらして怒りに満ちていたら、自分自身が平和とはいえない。

 また、平和を実現するために、他者を批判したら、自分自身の心は怒りに満ちてしまい、他人にも自分にも平和はやって来ない。

 まず自分自身の心を平和にしていくことで、家族の平和へと広がり

 平和な家庭環境の基礎があって、会社や学校、そして地域の平和へと広がり

 地域の平和と安定が、日本の平和、被災地の復興、安定した経済が現れてくるものと考えます。そして、平和で安定した国が多く出現することが、世界の平和へとつながっていきます。

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 世界平和への第一歩は、先(ま)ず自分の心を、平和にしていくことです。

posted by 正翁寺 at 15:59| 日記

2015年10月10日

ご開山韓嶺良雄大和尚記念報恩祭り


正翁寺ご開山(ごかいさん=初代の住職)韓嶺良雄大和尚(かんれいりょうゆうだいおしょう)の400回忌を記念しまして、報恩祭りを開催します。

・日時:10月25日(日)12時開場、飲食店開始
               13時開演
               16時終了予定

   ☆詳細はこちらをご覧下さい。

※なお、報恩祭りの際は、駐車場がご利用になれません。別途駐車場をご利用いただくか、公共の交通機関をご利用下さい。

posted by 正翁寺 at 22:28| 日記