2014年04月17日

禅の友4月号

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・「報恩授戒会(ほうおんじゅかいえ)」大本山永平寺(P,30)
 報恩授戒会とは、お釈迦さまの尊いご戒法(かいほう)が歴代のお祖師(そし)さまを経て、永平寺79世福山諦法不老閣猊下(ふくやまたいほうふろうかくげいか)へ伝わり、更に授戒会に参加される戒弟(かいてい)の皆さんへと伝授される儀式のことです。
 戒(かい)を授かるということは、仏の教えを我が身に照らし、我が非に気づき、それを正すべく実践していくこととされます。
 一週間調えられた環境に身を置き、素直な心で仏の行(ぎょう)を行う時、知らず知らずのうちに、みな尊い仏そのものとなられます。
 皆さまにも是非この尊きご縁を賜る報恩授戒会をお勧めいたします。

posted by 正翁寺 at 13:40| 日記

2014年03月08日

禅の友3月号

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「夜眠日走」酒井大岳
 「よるねむり、ひにはしる」と読みます。夜はゆっくり休み昼は元気に働く、つまり、天体の運行に逆らわずに生きることを言います。
 104歳になるおばあちゃんに長生きの秘訣を聞きましたら、「そうさなあ、小鳥とおんなじかなあ。暗くなったら寝て明るくなったら起きる、それだべなあ」と教えてくれました。
 就寝時間が真夜中近くになっている現代人が、朝から疲れた顔をしているのは、自然の摂理に反している現象と言えなくもありません。

「彼岸会(ひがんえ)」大本山永平寺(P,30)
 彼岸会とは春分・秋分の日を中日とした一週間のことです。
 「彼岸」は「到彼岸(とうひがん)」の略で、「此岸(しがん)」(煩悩と迷いの世界)にいる我々が仏道修行により到達できる悟りの境地のことを意味します。
 このことについて道元禅師は、修行して彼岸に到るのではなく、迷い多き此岸こそが悟りの世界でもあるとお示しです。
 悟りを求める心を発す(おこす)ということは、自らが救われる前に他の人々を救おうという願いを発し実践していくこと。
 もし此岸においてすべての人がこのことを実践すれば、此岸と彼岸の垣根がなくなり、誰も彼岸にいく必要はなくなるでしょう。このことを「彼岸到(ひがんとう)」と表現されています。
 
posted by 正翁寺 at 11:24| 日記

2014年02月02日

禅の友2月号

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「焼香の功徳」尾崎正善(P,18)
 お寺にお参りした時、ご法事の席、またお通夜・ご葬儀に参列された時など、お焼香をされたことがあると思います。
 この焼香は、中世、室町期に書かれた禅宗の書物の中にありますから、かなり古い段階から行われていたことが分かります。
 作法に関しては、宗派や地域によって異なりますが、何よりも心を込めて行うことが大切なのです。では、心を込めて行うとは、どのようにしたらいいのでしょうか。師匠に言われたことは、相手のことを思い出して、感謝の気持ち、ありがとうという思いを新たにして焼香せよ、ということでした。
 お釈迦さま、ご本尊様に対する焼香はもちろんのこと、その法要で供養する方、さらに会ったことのない多くのご先祖さまに対しても、自身にツナがる命の尊さを思いながら、感謝の思いを新たにして焼香しなさいということです。
 亡き父母や祖父母のこと、ご先祖さまを思いながら焼香したならば、何よりのご供養になるのではないでしょうか。


posted by 正翁寺 at 17:29| 日記

2014年01月02日

禅の友1月号

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「若水迎え」村田善子
 元旦のまだ暗いうちに、お餅やお米を水神や井戸神に供え、井戸から水を汲んでくる行事のことを「若水迎え(わかみずむかえ)」といいます。
 かつてはこの水で家族の食事を炊き、またお茶をたてて飲む習慣がありました。家族中が新年の凜とした空気の中で気持ちを正していた風景が浮かんできます。
 水道が普及し井戸へ水を汲みに行くこともなくなった現在では、この行事はほぼなくなってしまいました。でも、せめてその気分だけでも拝借したいと、元旦の朝に目覚めて初めて口にする水やお茶に、少しばかり心を研ぎすまして扱い、飲む。体中で一年のはじまりを迎え入れる。
 ひんやりした冷たい水をスーと体に通すのか、もしくは丁寧にいれたお茶をじっくり味わうのか、それはその時の心境で。

「食事の功徳」太瑞知見(P,16)
 お正月は気分も一新。お天道様もひときわ神々しくみえる特別な朝です。そしておせち料理に舌鼓を打ちながら、改めて日本の食文化の豊かさを思います。
 昨年末には「和食・日本人の伝統的な食文化」が、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。和食の特徴である「うまみ」は、英語でも「umami」と表記されるほど日本独自の食文化です。
 多様で新鮮な食材、世界でも類をみない発酵食品や乾物がおりなす料理、自然の美しさや四季のうつろいを表現した盛り付けなど、多種多彩な日本食は、私たちの大切な伝統です。一節によれば、郷土料理を含めると、日本食には四千種類以上のレパートリーがあるとか。
 今年は日本食を見直して、好きな人や気の合う仲間と一緒に、楽しく美味しい食事をたくさんいただきましょう。今年まるまる、みなさまにとって、美味しく幸せな一年になりますように。

「食べものの記憶」青木千恵(P,18)
 お正月は一年のはじまりを祝い、さまざまな願いを込めておせち料理をいただく時節だ。
 1965年度に73%だった日本の食料自給率は、2012年度には39%に低下し、輸入に頼りつつ多くの食べものが国内に流通している。消費者の口に入るまでに複数の業者が関わり、、食べものをめぐる事件が起こるようになった。
 昨年秋、高級おせち料理の食材が何年にもわたって偽装されていたことが発覚して、注文のキャンセルが相次いだ。また食をめぐる事件は、ホテルや百貨店でも食材の「偽装」が行われていたと分かり、芋づる式に広がっていった。
 注目をひこうと、世の中には宣伝文句があふれている。「名門」や「大手」が信頼できない場合、何を判断材料にしたらよいのだろう。「口コミ」はどうかというと、一昨年に口コミを掲載するグルメサイトで「やらせ」が発覚している。何より匿名の書き込みは情報として曖昧だ。
 結局のところ自らの感覚を育て、物事の善し悪しを見わける力を付けていくことだと思う。何気ない普段の食卓は、ブランドとは無縁でごまかしがきかない。その人自身の感覚は、平素の生活を通して養われる。
posted by 正翁寺 at 17:40| 日記

2013年11月30日

禅の友12月号

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・禅のことば「潺々流水」酒井大岳
 「せんせんたるりゅうすい」と読みます。さらさら流れる浅い谷川の音を言います。
 人は多かれ少なかれ悲風(悲しい運命の風・黒風とも言う」を浴びて生きていきますが、そのために暗くなってしまう人と、乗り越えて明るく生きていく人と、さまざまです。
 多くの苦難にめげず、なおかつ明るくのびのびと生きていく人のことを「乗り越えて澄む」と言っていますが、水にたとえると、よどむ水は濁り、流れる水は「澄む」ということでしょう。
 「さらさら生きて、さらりと去る」、禅の歴代の方々の一生は、おおむねこのようでありました。流れて澄んでいきたいものです。

・特集「新たに歩む」(P,1)
 定年後の人生をいかに生きるか。それが問われる時代になった。今までの経験を生かしつつ、新たな人生を送るためには、何を考えて歩み出すべきなのか。

posted by 正翁寺 at 18:29| 日記

2013年10月29日

禅の友11月号

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・禅のことば「粒粒辛苦」酒井大岳
 「りゅうりゅうしんく」と読みます。一粒一粒のお米には農家の人々のご苦労と、光線・水・肥料などの恵みがあふれています。それを感謝していただくとき、一粒のお米の本当の味が分かるのです。
 戦時中、食べ物がなくなると、私は裏山に登って楢(なら)の木の根を掘りました。根の先にほっこり膨らんでいる部分があり、それを切って家に持って帰ると、母が喜んで、「これで三日は生きられる」と涙ぐんでいました。これを土鍋で煮て食べたときの美味しさは、今でも忘れることができません。それからは一粒一粒のお米を心して味わうようになりました。 
 現代は食べ物が豊富で食べ残しはほとんど捨てているようですが、禅の道は一粒のお米のいのちを大切にするところから始まります。そこには大宇宙のいのちが凝縮されているからです。

posted by 正翁寺 at 15:56| 日記

2013年09月25日

禅の友10月号

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・禅のことば「葉落ちて根に帰す」酒井大岳
 「はおちてねにきす」と読みます。
 木々たちは枯れ葉を根元に落とし、土に返してみずからを生かす栄養とします。この繰り返しが木々たちの命を循環させているのです。
 ところが、雑木林を歩いて行くと、木の根元にはさまざまな木の葉が集まっていることに気づきます。木枯らしの吹くなかで木々たちは互いに枯れ葉を交換し、より新鮮な栄養素を作り合っている。
 この自然を観察していると、争わず、分け合って生きていることに教えられます。
 枯れ葉に学んで、人間も互いに良いものを交換し合って生きてゆきたいものです。

・特集「挑む」(P,1)
 現在、大学卒業者の四人に一人が非正規雇用。たとえ正規の社員になれても、三十代、四十代で引きこもりになる人が約二割を占めるという。果たして彼らが、正規雇用や都市での生活にこだわる必要があるのだろうか。
 もっと柔軟に自分の生き方を考えたときに、別の選択肢も出てくるのではないだろうか。自分が生きていく世界をもっと自由に考えてもいいのではなかろうか。
 「皆が皆、会社員になる必要はありません。人間関係に疲れ、家に引きこもってまで都会生活をする必要もありません。人間相手ではなく、自然を相手に自己を発揮する手立てもあります。自然を相手にのびのび暮らす方法もあります。要は、自分の生き方をもっと柔軟に考えるべきなのです」
 「全国的な動きとして、山に木を植える運動があります。樹木を植えることで山の養分が増え、その養分が川を流れて田畑を潤し、海に注ぐことで海の養分も豊かになる。その養分を食べて魚介類は美しく育つ、というのです。植林の結果、山崩れなどの災害を防ぐことにもなる」
 現在は、国も人も、共にカラを破ることが求められている。今まで通用してきた古い価値観(=カラ)を破って、新しい価値観に向かって挑むときが来ている。

「犯罪の件数の減少と治安の悪化」青木千恵(P,10)
 八月に公表された今年版『警察白書』によると、12年の刑法犯の認知件数は、戦後最多だった02年の半数以下に減っている。犯罪の認知件数は減少の一途だが、内閣府の世論調査では、国民の8割以上が「過去10年で治安は悪化したと思う」と答えている。
 12年の児童虐待の検挙数は99年以降で最多だった。いじめに起因する事件数は87年以降で最多。家庭内暴力(DV)やストーカーの件数も増えている。
 犯罪件数の減少は「みえる犯罪」が減ったということで、「みえにくい犯罪」は減っていず、「悪意」のようなマイナス感情を自制できない人は、むしろ増えているのかもしれない。
 しかしこの「悪意」という感情を、人は誰でも持っている。法に触れなくても、悪意は世の中を息苦しくするし、ときに犯罪を誘発する。自制を習慣づけて努めなくてはならないが、そうできない人もいる。
 愚か者の「みえにくい犯罪」で簡単に崩れるような人間関係を築いてはいけない。信頼できる人とのつながりを大切にしたい。
 
posted by 正翁寺 at 17:34| 日記

2013年08月31日

禅の友9月号

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・禅のことば「随縁」酒井大岳
 「ずいえん」と読みます。文字どおり「縁にしたがう」ことを言います。
 縁は不思議です。なぜ巡り会うかを説明することができないからです。
 夫婦・親子・師弟・友人、みな遠い過去からのかかわり合いがあって巡り合っている。ご縁を大切にしましょう。
 この星に ふたり合うべく 生まれ来(こ)し
      えにし尊(たっと)ぶ けふ嫁ぐ子に   伊藤幸子

「苦しみとは何か」羽賀孝行(P,18)
 皆さんは「苦」という漢字を見るとどのようなことが頭に浮かぶでしょう。
 一般的には、肉体的・精神的な「苦痛」がまず浮かんでくるのではないでしょうか。
 お釈迦さまは、この世のすべてのものは常に移り変わっており、永遠だと思っているものもいつかは必ず失われていく、「無常」な存在だと示されました。
 そして人はその「無常」なるものを「これは私のものだ」と執着してしまうからこそ苦しむのだと説かれるのです。
 自分の周りにあるすべてのもの、また自分自身でさえもいつかは必ず失われていくものですから、ずっと自分のものであることを願っても、、それは叶うはずがありません。
 思い通りにならないことを、思い通りにしようとして苦しむ自分。これらを知ることが苦しみを離れる一番の近道なのです。

 
posted by 正翁寺 at 11:33| 日記

2013年07月27日

禅の友8月号

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禅のことば「真儀凛々」酒井大岳
 「しんぎりんりん」と読みます。「真儀」は姿形(すがたかたち)のこと、「凛々」はりりしいということ。容姿や身なりがきりっとしている人は、心もいきいきとしてさわやかである、という意味の言葉です。

 日はのぼり日はまた沈むいつのときもわれに凜たり心の一樹  
 (加藤克巳)

 こころに一本の樹があり、その樹はいつも凜としていると言います。買った樹ではありません。学んで育てた樹なのです。
 そこから「しゃん」とした姿形が生まれ、りりしい生き方が始まるのです。これを「りんりんと生きる」と言っています。 
 

「変わることと 変わらないお盆」上月泰龍(P,1)
 以前あるお宅へお盆のお参りに伺ったときのことです。その夏はキュウリが不作だったので、そのお宅では代わりにゴーヤで馬をつくられたのでした。
 少しずつ形の変わっていく風習もあるし、地域によってお勤めの仕方にも違いがあります。それでも、「お盆にはご先祖さまをキチンとお迎えしたい」という私たちの気持ちは、時代や土地の違いに関わりなく、変わることがありませんでした。
 100年後に私たちの子孫はどんなお盆をお勤めしているのでしょうか?100年後にも変わらずお勤めしてもらえるよう。それを忘れずに、今年もお盆を迎えたいものです。

posted by 正翁寺 at 17:30| 日記

2013年06月30日

禅の友7月号

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禅のことば「朴而不形」酒井大岳
 「朴(ぼく)にして形(かたち)つくらず」と読みます。朴訥(ぼくとつ)でなりふりを飾らない人柄を言います。
 長女が嫁ぐとき、「お父さん、私に小さな言葉を一つください。それを大切に生きていきます」と言うので、考えた末、色紙に「かざらず、かまえず、かたよらず」と書いて持たせました。
 人は飾れば飾るほど心の内側を覗かれます。構えれば構えるほど心身ともに疲れます。この二つから離れる努力をしないと、いつの間にか偏(かたよ)った人生を歩んでしまい、取り返しがつかなくなってしまうようです。

お盆を迎える〜まごころのおもてなし(P,1)
 お盆行事、日本では657年に宮中で初めて行われた記述があります。それから恒例行事として宮中で行われるようになり、それが民間にも受け入れられるようになると、ご先祖さまのみならず、生きとし生けるものすべてに供養を施し、幸福を願う国民的行事として定着しました。
 地域によってさまざまな迎え方、飾り方がありますが、形態はどうあれ、ご先祖さまのお霊をまごころをもっておもてなしすることが、「お盆」の本質です。お盆を機会に、ご先祖さまに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

posted by 正翁寺 at 15:59| 日記